四月会による反創価学会キャンペーンの展開
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「反創価学会キャンペーン」の記事における「四月会による反創価学会キャンペーンの展開」の解説
1994年(平成6年)12月に新進党の誕生とともに公明党も新進党に合流する。旧公明党は新進党の一派閥になった。自社さ連立政権(村山内閣)は、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災やオウム真理教事件での対応の遅れからマスコミからの批判を招き、また、長年の政敵であった自民党と社会党が手を組んだことによる国民の批判、政治不信が増大し、1995年(平成7年)の4月に行われた東京都と大阪府の知事選挙では無党派層の風が吹き、東京では青島幸男が、大阪でも横山ノックが既成政党が相乗りで支援した候補を破って当選したことに与党は大きなショックを受けた。また、1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙でも自民党は票が伸び悩み、特に比例区では創価学会の選挙支援を受けた新進党の得票数が自民党を上回った。創価学会の組織票の強さに危機感を持った自民党は新進党と創価学会にターゲットを絞った「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」を自民党の機関紙『自由新報』に掲載。反創価学会キャンペーンを展開した。 主な内容 朝木明代市議転落死事件(東村山市)と創価学会との関係 衆議院選挙前に「新進党=創価学会」と書かれたビラを一部有権者宅に配布 池田大作名誉会長にレイプされたと訴える元・創価学会幹部の登場 詳細は「池田大作に対する訴権の濫用」を参照 池田名誉会長が創価学会の金をパナマで運用し、マヌエル・ノリエガ将軍の麻薬取引の資金繰りにも使わせていたとする記事を掲載 なども取り上げられた。 こうした「反創価学会キャンペーン」を巧みに利用した自民党が1996年(平成8年)の第41回衆議院総選挙に勝利した。一方、連立与党だった社会民主党(旧社会党)と新進党は惨敗した。このうち、新進党では小沢一郎(党首)の強引な政治手法に反発した旧公明党支持母体の創価学会が一部の選挙区で自民党候補者に投票して分裂選挙の様相を呈した末の敗北だった。 その後、小沢一郎の強引な政治手法に端を発した新進党の党内対立が激化し、加藤紘一(自民党幹事長)ら自民党執行部による引き抜きに呼応した新進党の一部の議員が自民党に移籍するなどして弱体化し、1997年(平成9年)12月に新進党は分裂し解散した。
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四月会による反創価学会キャンペーンの展開
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「四月会」の記事における「四月会による反創価学会キャンペーンの展開」の解説
1994年(平成6年)12月に新進党の誕生とともに公明党も新進党に合流する。旧公明党は新進党の一派閥になった。1994年(平成6年)6月に発足した自社さ連立政権(村山内閣)は、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災やオウム真理教事件での対応の遅れからマスコミからの批判を招き、また、長年の政敵であった自民党と社会党(後の社民党)が手を結んだことによる国民の批判、政治不信が増大する。1995年(平成7年)4月に行われた東京都と大阪府の知事選挙では無党派層の風が吹き、東京では青島幸男が、大阪でも横山ノックが既成政党が相乗りで支援した候補を破って当選したことに与党は大きなショックを受けた。また、1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙で自民党は票が伸び悩んで敗北し、特に、比例区では創価学会の選挙支援を受けた新進党の得票数が自民党を上回った。創価学会の組織票の強さに危機感を持った自民党は新進党と創価学会にターゲットを絞った「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」を自民党の機関紙『自由新報』に掲載。反創価学会キャンペーンを展開した。国会で自民党の広報本部長だった亀井静香(衆議院議員、元運輸大臣)などが『公明党と創価学会は政教一致である』という公明党や創価学会への批判を繰り返した。 1996年(平成8年)の第41回衆議院総選挙では、自民党系の「四月会」が反創価学会キャンペーンを展開して1996年の衆議院総選挙で自民党が勝利した。連立与党だった社会党(後の社民党)と野党の新進党は惨敗した。このうち、新進党では小沢一郎(党首)の強引な政治手法に反発した旧公明党の支持母体の創価学会が一部の選挙区で自民党候補者に投票するなど分裂選挙の様相を呈した末の敗北であった。 1997年(平成9年)には、新進党の小沢一郎(党首)の強引な政治手法が原因となり、新進党内で対立が激化して新進党の一部の議員が引き抜きを受けて自民党に移籍するなどの動きが起こり1997年(平成9年)12月に新進党は分裂し解党した。 1998年(平成10年)7月の第18回参議院選挙で自民党が敗北すると、橋本龍太郎(内閣総理大臣)らの自民党執行部がそれまでの公明党・創価学会との対立関係から関係修復へと「方針転換」し、自民党系の「四月会」による「反創価学会キャンペーン」について、橋本総理らの自民党執行部が創価学会側に公式に謝罪して反創価学会キャンペーンは終息した。
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