囚人について
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様々な国籍の人々がマイダネクに収容されていた。ポーランド、ロシア、ウクライナの国籍者が特に多く、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ギリシアの国籍者がそれに次ぐ数がいた。それよりも数は少ないが、ベルギー、セルビア、クロアチア、ハンガリー、スペイン、ノルウェー、スイス、トルコ、中国などの国籍者も相当数いた。囚人は、実に28カ国、ユダヤ人を含め55人種、総計50万人に及んだという。このうち全体の60%以上にあたる36万人以上が死亡したといわれる。その内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるという。
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囚人について
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「ブーヘンヴァルト強制収容所」の記事における「囚人について」の解説
この収容所が開設された1937年7月、囚人の数は政治犯を中心に929人であったが、刑事犯や浮浪者、労働忌避者などの収容で数を増し、1938年1月1日の時点で2557人が収容され、さらに1939年1月1日には1万1028人になっている。 1938年11月の水晶の夜事件の直後、逮捕されたユダヤ人が大量にブーヘンヴァルトに送られてきたため、一時的に収容者数が1万8000人を超えたが、この事件で逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間で釈放されたため、収容者数もまもなく1万人前後に戻っている。 1939年の第二次世界大戦の開戦後、1943年1月までは収容者数は大体1万人を下回るぐらいで推移している。 しかし、総力戦体制が強まった1943年以降、一度に1000人単位で収容者が移送されてくるようになり、1944年1月1日には収容者数が3万7319人を数えている。さらに各地の閉鎖された収容所からの移送も相次ぎ、1945年1月1日には6万3048人を超え、さらに同年4月1日には収容者数8万人を超えてしまう。当然のことながら、収容所内の生活環境は劣悪になった。その後、収容所の撤収決定があり、最後の囚人移送が開始され、アメリカ軍が到着した際には2万1000人の囚人が残っていた。 囚人たちはこの収容所に送られてきてからしばらくの間は、一時隔離用の小収容区に収容されたが、やがて大収容区に移され強制労働分隊に編成された。ブーヘンヴァルトの外部労働分隊は1940年12月の時点では2個労働分隊(7400人が配属されていた)あったにすぎなかったが、1945年3月には107個労働分隊になっていた。 この収容所には当初、ドイツ人の囚人しかいなかったが、1938年のオーストリア併合後には旧オーストリア人(彼らの国籍はドイツ国籍に移行している)、1939年のチェコスロバキア併合後にはチェコ人も送られてくるようになった。開戦とともにドイツ占領下のヨーロッパ各国の人々が送られてきた。独ソ戦開始後の1941年10月、最初のソ連兵の捕虜が到着する。その後、ソ連兵捕虜が増加し、最終的に強制収容所に残っていた囚人の中で一番多かったのもソ連からの収容者であった。
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