各種改革の実施
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)
「ウラジーミル・レーニン」の記事における「各種改革の実施」の解説
レーニンの新政府は発足後ただちに一連の布告を発した。「平和に関する布告」は、第一次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償」の講和を提議した。「土地に関する布告」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的な承認を与えるものであった。「言論に関する布告」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは報道の自由を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた。さらに別の布告で人民委員会議は従来のロシアの法制度を廃することを宣言し、廃止された法律に代わって「革命的良心」を用いることを呼びかけた。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「革命裁判所(英語版)」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された。 レーニンは1917年10月の布告でロシアの全労働者の労働時間を1日あたり8時間に制限したほか、ロシアのすべての子供を対象とした無料の普通教育が公的に約束されることを定めた。さらに別の布告では国営の孤児院制度が創設された。強硬な無神論者であるレーニンとその党は組織的宗教の解体を望んでおり、新政府は1918年1月の布告で教会と国家の分離を宣言するとともに、学校における宗教的教育を禁止した。レーニン政権下で、ロシアは妊娠初期における妊婦の意思による中絶を合法化した世界で最初の国となった。また、男女同権の理念のもと女性解放を推し進めるための新たな法律が制定され、既婚女性に夫からの経済的自律性が認められ、離婚に関しての各種制限も撤廃された。 憲法制定議会の開催に先立つ1918年1月1日、レーニンはペトログラードの馬術学校での演説を終えた帰途の車中で数人の男から発砲されたが、同乗していたフリッツ・プラッテン(英語版)が盾となり身を呈して銃弾を受けたことで負傷を免れた。捜査によってレーニンの暗殺を試みたのは王党派であったことが判明したが、人民委員会議はボリシェヴィキと敵対する他の社会主義政党にテロ行為加担の容疑をかけた。1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初移転は一時的な処置となる予定だった)。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリンに居を移したが、レーニンはペトログラードに比べて西欧化されておらず、伝統的ロシアの色が濃いモスクワを嫌った。 1918年3月、ボリシェヴィキは党の正式名を従来の「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」へと改称したが、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった。1918年7月、第5回全ロシア・ソビエト大会(ロシア語版、英語版)において新しいソビエト憲法(ロシア語版、英語版)の制定が承認され、ロシア共和国は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」へと改められた。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦であるユリウス暦の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様のグレゴリオ暦に切り替えられた。
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