史上24人目の平幕優勝者
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「水戸泉政人」の記事における「史上24人目の平幕優勝者」の解説
続く1992年7月場所、西前頭筆頭に下がった水戸泉は、場所前のヨーロッパ遠征を腰痛により休場したことで、ハードスケジュールと時差ボケに苦しんで調整不足のまま場所を迎えたほとんどの力士と異なり好調の状態で土俵に上がった。場所前に新大関の曙が稽古中に左足小指を痛めて全休したのもチャンスであった。幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星をどんどん積み重ねていく。中日で小結・貴花田(当時、のち貴乃花)に初黒星、10日目に大関・霧島に敗れ2敗はしたものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走っていた。場所中、好成績を目当てとした意図的なヨーロッパ巡業への不参加ではないかという批判が集中したが本人は「ホントは、オレだってヨーロッパに行きたかったんだ」と本当に怪我の影響で巡業を全休したのだと強調。終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも上手投げで勝って12勝2敗とした。その貴ノ浪との相撲では、若さに任せた相手の寄りをギリギリで残し、さらに左外掛けにくる貴ノ浪を吊り上げるような上手投げで逆転。その後10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐんだ。その嬉し泣きぶりは当時を知る記者の感覚では、それまで見たことが無いような派手な嬉し泣きであったという。奇しくも当時の高砂親方である富士錦が現役時代、1964年に平幕優勝した時と同じ名古屋の土俵だった。千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。なお平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目であるが、前年の1991年7月場所に琴富士、同年9月場所に琴錦、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となった。 優勝パレードでは当時大関で、優勝を争った小錦が優勝旗の旗手を務めた。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたという。しかし高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄でよき相談相手で兄貴分でもあり、また入門時から長く稽古相手をしていた仲でもあった。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)では曙の旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」「これまでオレが優勝した3回とも水戸関が旗手をやってくれた。これはホンのお返しさ」と小錦が「恩返し」の意味で自分から願い出たことだった、という。小錦は4敗を喫した際、水戸泉の優勝を確信したとも取れるような表情を花道で浮かべていた。
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