原産地呼称(DO)認定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 23:13 UTC 版)
「リオハ・ワイン」の記事における「原産地呼称(DO)認定」の解説
生産地域の制限、ワインの品質保証拡大、「リオハ」の名称管理を行うために、1926年にはリオハ原産地呼称統制委員会が設立された。1932年にスペインの原産地呼称制度であるデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)が制定された際には、ヘレスやマラガなどとともにリオハも認可されたが、1930年代のスペインはスペイン第二共和政期やスペイン内戦で政情が不安定であり、正式な認定には至らなかった。1945年には原産地呼称統制委員会が法的に構築され、1953年に原産地呼称統制委員会が実体として発足した。1950年代から1960年代にはフランコ独裁政権が協同組合を奨励する農業政策を取り、リオハでも協同組合が続々と結成された。この時期以降にはヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国などの国際市場での評価を確立させ、1952年に490万リットルだった輸出量は、1972年に4,070万リットルにまで増加した。 1970年代にはリオハへの投資が活況を呈し、大手シェリー生産者、多国籍企業、リオハやバスクの実業家などが多額の資金を投じて、ワイナリーの新設や買収などを進めた。ヘレスからはオズボーン社やゴンサレス・ビアス社やドメック社、多国籍企業ではシーグラム社(カナダ)やペプシコ社(アメリカ合衆国)、世界最大の蒸留酒メーカーであるシェンリー社などが進出している。1980年代半ばにはこれらの大規模生産者のほかに、自ら熟成やボトリングを行う個人生産者も現れた。この時期のリオハでは収穫量の多さを求めて若い樹への植え替えが進み、収穫したブドウは厳しく選果されなかった。自前のブドウ畑を持たない大規模生産者も多く、そのような生産者は質より量を優先させた。これらが原因で生産されるワインの品質は低下し、1980年代のリオハはワイン産地としての信用を失墜させた。このような状況の中でも一部の生産者は革新に取り組んでおり、マルケス・デ・カセレスはリオハの伝統を覆す果実味溢れるワインが生産されるようになり、コンティーノは当時一般的でなかった単一畑ワインというコンセプトを市場に提案した。
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