医師の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:10 UTC 版)
結婚を捨てた唯は、親戚筋の営む薬屋「吉田松花堂」に身を寄せた。東京の明治女学校を経て、1890年(明治23年)11月6日に、熊本薬学校(後の熊本大学薬学部)に入学した。 1892年(明治25年)10月に薬学校を卒業、翌月に大阪で薬剤師試験にも合格、1894年(明治27年)8月27日に薬剤師名簿に正式登録され、薬剤師として父と共に薬局を開業した。しかし、唯の向学心は留まることがなく、牛深には眼病を患う住人が多かったことから、医師として人々を救うことを志して、2年も経たずに薬局を廃業した。 1895年(明治28年)に再び上京して、翌1896年(明治29年)に、私立医学校である済生学舎に入学した。済生学舎は、開校当時には女子の入学を許可していなかったが、日本の公許女医第3号である高橋瑞子が門戸を開いた功績、そして済生学舎が再び女子の入学を禁止する4年前のことであり、唯は運良く入学することができた。 1897年(明治30年)に医術開業試験の前期、翌1898年(明治31年)5月に後期の試験に合格した。医師になるためには、通常なら3年間の課程が必要なところを、猛勉強の末に、1年半で学問を修めたことになる。これは、すでに薬学を修めていたために一部の単位が認定されたためだが、夜は布団を縦半分に折って寝て、寝返りを打つと床に転がって目が覚めるので、そのまま起きて机に向かうといった具合に、寝食を忘れて猛勉学に励んだとの逸話も伝えられている。 同1898年、私立伝染病研究所(後の北里研究所)に入所して、北里柴三郎の助手を務めて修業を積んだ。北里は当時、すでに血清療法の開拓者、日本近代医学の父として著名な人物であった。また北里は唯と同じく熊本出身であり、後述のように結婚の媒酌、中国の開業の助言など、公私にわたって唯の恩師となった。北里の他、同じく熊本出身であり、日本で初めて帝王切開を行った日本の産婦人科学界の始祖である浜田玄達にも師事して、浜田から産婦人科学を学んだ。研究所の同窓には野口英世もいた。翌1899年(明治32年)に医籍登録し、牛深で開業した。
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