医学部開設構想とは? わかりやすく解説

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医学部開設構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:57 UTC 版)

立教大学」の記事における「医学部開設構想」の解説

1916年大正5年)に、築地にあった立教大学医学部開設計画される当時聖公会築地キャンパスには、大学隣接して聖路加病院(現:聖路加国際病院)が設置されており、連携取りながら運営が可能であった学校管轄する文部省でも、立教大学医学部創立論があり、設立向かって計画進み出したが、当時欧州での第一次世界大戦の影響から医学部開設のための募金が集まらず、設置に至らなかった。その後も、聖路加病院院長で、立教学院理事でもあったトイスラー医学部設置構想進めるなど、大正から昭和に至るまで度々計画具現化される問題であった1941年昭和16年)には、理事会において立教学院総長大学学長であった遠山郁三より「多年懸案タル医学部設置提案なされた聖路加国際病院当時財団法人路加国際メディカルセンター)との協力のもとで実現しようとする計画であった理事会において、聖路加国際病院院長橋本寛敏も出席し必要性などについての発言行ったその結果医学部聖路加国際病院協力して設置することに一致決定したであった。この立教側の決定受けて、聖路加側でも理事会によって、協同により立教大学医学部新設することを決定した認可申請の手続きは、立教大学側に一任するとともに認可の際には、聖路加立教学院合併することとされた。申請構想によると、予科三年制)を1942年昭和17年4月から池袋に開設し、その卒業生が出る1945年昭和20年4月から、聖路加国際病院がある京橋区明石町学部(四年制)を開設する予定であった学生定員予科100名、学部80名という規模であった1942年昭和17年2月19日に、文部省に対して医学部設置認可申請が行なわれ、同年5月30日に、厚生省に対して申請が行われた。しかし、文部省了承取り付けたものの、聖路加国際病院戦時下医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因があったと考えられ厚生省において了承得られず、開設には要らなかった。医学部設置のために精力傾けてきた遠山は、学院総長理事大学学長というすべての職を辞し立教を去ることになった。(戦後になって遠山聖路加国際病院顧問として皮膚科診療従事している。)戦後学制改革による新制大学設置1949年に際しても、医学部開設決定され理学部がその前段階教育を担うものとされた。しかし、肝心の聖路加病院施設が、GHQによる接収1956年まで)を受けていたこともあり、実現に至らなかった。2022年 (令和4年)現在、医学部開設されていないが、スポーツ医学分野では2019年令和元年)から聖路加国際大学協定締結し聖路加国際病院スポーツ総合医療センター医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援協力受けられる体制整備している。また、大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科協定締結し医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻設置している。2017年平成29年)には、聖路加国際大学日本5番目となる公衆衛生大学院専門職大学院公衆衛生学研究科)が開設されている。

※この「医学部開設構想」の解説は、「立教大学」の解説の一部です。
「医学部開設構想」を含む「立教大学」の記事については、「立教大学」の概要を参照ください。

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