ミッションの医療活動とは? わかりやすく解説

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ミッションの医療活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:57 UTC 版)

立教大学」の記事における「ミッションの医療活動」の解説

立教大学は、開設以来幾度医学部開設構想してきた。立教大学創設した米国聖公会ミッションは、伝道行い教育活動医療活動展開していくことが活動本質であった(#年表参照)。ミッションにおいて教育活動中心となるのが学校寄宿舎で、医療活動中心となるのが病院診療所であり、米国聖公会1859年安政6年)、幕末長崎日本ミッション開設した当初から、これらの開設運営進めてきた。米国聖公会伝道本部から宣教師任命されジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズによって、日本プロテスタント初となるミッション開設され、早速二人教育活動始めたが、同時に医療宣教師宣教医)であるハインリッヒ・シュミット医師任命され日本医療活動医療従事者向けに教育活動始めたシュミット長崎診療所開設し治療活動を行うとともに地元医師西洋医学と英語を教え近世日本布教史における最初宣教となったのであるその後米国聖公会活動中心は、のちに初代日本伝道専任主教となるウィリアムズ動きに伴い長崎から、大都市大阪東京へ移っていく。大阪では、1870年明治3年)にウィリアムズが、川口居留地近く与力町礼拝堂英語塾開設したことを足掛かりミッション拠点構築していくと、1873年明治6年)に、米国聖公会伝道本部から宣教医に任命されヘンリー・ラニング医師(M.D.)が診療所開設し医療活動始めた1883年明治16年)には、大阪・川居留地8番に木造2階建ての病院新築され、ラニング医師院長務めたが、この病院現在の聖バルナバ病院となった東京では、1874年明治7年)に、築地居留地ウィリアムズ私塾立教学校)を開設し拠点築いていくと、1883年明治16年)に、フランク・W・ハレル医師(M.D.)が宣教医に任命され、翌1884年明治17年)に来日し深川聖三一教会近くに「大橋診療所」を開設するハレル医師医療活動進展し患者数増えていくが、1887年明治20年)にハレル日本政府への赴任決まり宣教医を辞職しミッションから退くこととなった。しかし、1890年明治23年)になるとウィリアムズ要請により、医師聖公会信徒長田重雄が京橋区松町13番地に「愛恵病院」(英語名Tokyo Dispensary)を新たに開設して院長となり、医療活動再開するその後前項「#築地キャンパス立教と聖路加)」の記述通り愛恵病院は、立教大学校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名St. Luke's Hospital)と改称し開設。一旦閉鎖した後、ジョン・マキム要請により来日したルドルフ・トイスラー1901年明治34年)、同地に「聖路加病院」(英語名同じくSt. Luke's Hospital)を設立して閉鎖していた病院再興し現在の聖路加国際病院繋がっていくこととなったこのように聖公会ミッション教育事業医療事業セットであり、学校の開設とともに医師育成する医学部開設構想流れミッションにおいて自然なことであった

※この「ミッションの医療活動」の解説は、「立教大学」の解説の一部です。
「ミッションの医療活動」を含む「立教大学」の記事については、「立教大学」の概要を参照ください。

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