匁の名目化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 17:08 UTC 版)
日本において金貨の貨幣単位として認識されている「両」は「両目(量目、りょうめ)」というように本来質量の基本単位であり、金一両は量目1両分の金が基準にあったが、度重なる改鋳により時代の変遷とともに金一両は1両分の金から乖離して次第に名目化が進行し、イギリスのポンドも同様に貨幣単位と質量単位が乖離していったのであったが、「匁」については慶長から安政に至るまで江戸時代を通して銀貨の掛目として維持され独立した貨幣単位としての名目化はなかったとの見方もある。一方で、「銀一匁」は銀そのものの含有量一匁ではなく、それも改鋳による品位低下の度に名目化の度合いを高めたとする見方もある。すなわち「匁」は銀の重量でなく、「貨幣の単位」であったというべきである。 銀札は本来銀の預り証であり、引替え用銀準備の下、つまり額面と等価の丁銀への兌換を前提に発行される名目であったが、実際には災害など藩の財政逼迫の度に多発されることが多く、正銀の額面としての銀の掛目と藩札の額面との間に乖離が生じるのが普通であった。宝永4年10月(1707年)に幕府は一旦、銀札発行を禁じ、流通している銀札を50日以内にすべて正銀(丁銀・小玉銀)に引き替えるよう命じたが、例えば紀伊田辺においては銀札一貫目は正銀二百匁に替えると布告される始末であった(『田辺旧事記』)。 また、特に江戸代後半はしばしば丁銀が払底し、代わりに匁銭勘定が行われるなどの名目化もあった。さらに、南鐐二朱銀など計数銀貨が台頭し始めた文政3年(1820年)には「四十三匁銀」と「五十目銀」と呼ばれる名目貨幣鋳造が提言されたこともあった。これらは「五匁銀」とは異なり額面通りの量目は無く、出目獲得を目的とした額面としての「匁」の名目化を狙ったものであったが実現には至らなかった。これ以降「匁」は、あたかも質量単位であり貨幣単位として名目化することは無かったかのような印象を後世に与えるようになったと思われる。また、丹波福知山藩でも幕末に30匁の1/9程度の量目12.3 g(3.3匁)の「銀三拾匁」、およびさらにその半量の「銀拾五匁」を試鋳している。幕末に徳島藩は阿州通寳「拾匁銀札」や「壹匁銅札」の銅貨、土佐藩は土佐官券「十匁」などの銅貨を試鋳しているが、何れも貨幣の量目(質量)とは無関係である。
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