動かない二代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 00:40 UTC 版)
「TAC (コンピュータ)」の記事における「動かない二代目」の解説
だが調整が難航する。主な難航要因は以下の通り。 ウィリアムス管が設計通りの性能を出せず不安定だった。これは最後まで尾を引いたという。主記憶装置について、水銀遅延線でなくウィリアムス管を選んだ理由は、村田いわく「今となっては誰の考えか、わからない」。東芝が当時作ったウィリアムス管は、アメリカが国家計画で作り、アメリカ国立標準局(今のアメリカ国立標準研究所)が評価した、RCA社製のブラウン管より優れていたという。 FUJICに比較して動作周波数の目標を200kHzと高く設定した。 論理回路がうまく動かなかった。 また上記に補足して村田は「初期のコンピュータは真空管がすぐ切れるから」という俗説に対し「当時の東芝の真空管は日本一性能がよく、滅多に切れるものではなかった。真空管にかかる電圧をわざと下げて誤作動を事前に間引きしておけば、当分真空管のトラブルは起きない。素子が少し不安定でも、素子の放射が半分でも平気なぐらいに回路を組めばいい。実は現代のトランジスタも不安定であり、そこが露見しないよう、良い意味でごまかして回路を組んでいるだけだ」との談話を残している。 やがてライクマンがコアメモリを作ると、アメリカの新造コンピュータは全てコアメモリ式に鞍替えした。三田の記憶装置の研究もコアメモリ中心になり、「TACは納品したが、ずっと動かないかも」とこぼし始めた。 後藤も「TACはもう動かねぇ。それじゃいけないから、後はこっそりパラメトロン(後藤が独力で発明した素子)で作っちまおう」(後藤は良くも悪くも思った事はズバリという主義で、「日本人がコンピュータを作った!」での証言も、こうした言葉遣いで記録されている)と言ったが、村田は「同感だが、動かないなら動かない理由を調査し、発表したい」と返答。「しょうがねぇな」と言った後藤は、完成を見ることなくTACを去り、高橋や東芝も1956年に撤退した。 そうしているうち同1956年には、岡崎文次が(しかも組み立て以外事実上一人で)7年かけて製作したFUJICを完成、初の国産コンピュータ完成という座は、FUJICに奪われた。 さらに翌1957年10月4日の朝日新聞に「超スロモーの電子計算機」という見出しと「コンピュータ開発にノイマンの法則『いつ聞かれても完成は半年後』があるが、6年たっても動かないのはどうか。動かない理由を公表すべき(要約)」などと書かれた記事が載り、一般には積極的公開をしていなかったTACの存在とその頓挫した状況が、批判されてしまう。村田によると「記事の質はいい加減でなく、しっかり書かれていた」との事。続けて12月頃には毎日新聞の連載記事の中で「犬は地球を歩く」という見出しにより「ロシアでは人工衛星に犬が乗る時代なのに、日本の地上ではコンピュータさえ動いていない」と揶揄された。 これで文部省や大蔵省の役員(特に文部省は権威ある人物が揃っていた)が東大工学部に来たことにより、村田は工学部長に呼び出され「マスコミはああ書いたが、真相はどうだ?」と問い詰められた。村田は「ウィリアムス管が1本(18バイト)だけちゃんと動いたので、これを続ければ大丈夫では」と回答。これを受けて山内が、皆でTACを見に行くよう働きかけ、「これが16本動けば大丈夫」とフォローした。もちろん村田はその時、(1本と16本では動かすことが雲泥の差)ということを、言わないが理解していたという。 もちろん当時の国内のコンピュータ業界では、TACの現状は周知の事実で、「あれはもうダメだ」と言われていた。しかもTACに出ていた、国と大学から公式予算は、維持費の増加でどんどん膨れ上がり、他の新たなコンピュータプロジェクトが予算を申請しても、通らなくなっていた。
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