制作年度と来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:19 UTC 版)
「読書するマグダラのマリア」の記事における「制作年度と来歴」の解説
オリジナルの祭壇画の制作年度ははっきりとしていないが、1435年から1438年ごろと考えられている。ファン・デル・ウェイデンは1435年にブリュッセルの公式画家に任命されており、この祭壇画はそれ以降になってから描かれた作品であるとされている。『読書するマグダラのマリア』を所蔵するロンドンのナショナル・ギャラリーでは「1438年以前」であるとしている。美術史家ジョン・ウォードはオリジナルの祭壇画がファン・デル・ウェイデンの最初の名作であり、師であるロベルト・カンピンからの多大な大きな影響が見受けられるキャリア最初期の作品であるとしている。ウォードはカンピンの『ウェルル祭壇画』との関連性を指摘して、制作年度は1437年ごろではないかとしている。 他の多くの初期フランドル派の画家と同様に、ファン・デル・ウェイデンも19世紀になるまでは忘れ去られていた画家だった。このため、ファン・デル・ウェイデンの作品の多くが別の芸術家による作品と見なされたり、誤った制作年代を割り当てられていた。ベルリンの絵画館)が所蔵するファン・デル・ウェイデンの傑作『ミラフロレスの祭壇画』も、1950年代までは誰の作品であるのか特定されておらず、重要な絵画とは考えられていなかった。さらにファン・デル・ウェイデン、あるいはファン・デル・ウェイデンの弟子たちの作品が再発見、整理されはじめたのは20世紀半ば以降になってからである。そしてその過程で真贋が明らかになったり、『読書するマグダラのマリア』とカルースト・グルベンキアン美術館が所蔵する2点の小作品のように、それまで作者未詳だった絵画群が関連のある作品であることが発見されたケースもあった。 『読書するマグダラのマリア』の来歴の最初のものは、ハールレム在住のコレクターの遺品が1811年にカッシーノで売却されたときの記録で、この時点ですでにオリジナルの祭壇画から裁断されていた。その後、ハールレム在住のドモアゼル・フーフマンの財産目録に記録されている。さらに初期フランドル派絵画の主要な画商だったニーウェンホイス兄弟、パリ在住の美術コレクターのエドモンド・ボークザンと所有者が変遷し、1860年にチャールズ・イーストレイクによってロンドンのナショナルギャラリーが、初期フランドル派の「小規模だが粒より」のコレクションとして購入した。このコレクションには『読書するマグダラのマリア』のほかに、ロベルト・カンピンの2点の肖像画、シモン・マルミオンの板絵なども含まれている。これらの作品群が購入された時期は、ナショナル・ギャラリーが世界的な地位と名声を獲得し始めた時代でもある。おそらく1811年以前に赤いローブ、香油壷、床以外の背景が茶褐色の顔料で塗りつぶされていたと考えられており、この顔料の除去が開始されたのは1955年になってからだった。塗りつぶされていなかった箇所を筆頭に、全体として「画肌の保存状態は極めて良好」で、顔料の剥落などはほとんど見られない。 『読書するマグダラのマリア』は、1828年からナショナル・ギャラリーが購入する1860年までのどこかの時点で、名前が伝わっていない職人の手によってもとのオークのパネルからマホガニーのパネルへと移植されている。美術史家ローン・キャンベルは移植された時期について「まちがいなく1828年以降で、おそらくは1845年以降、そして(ナショナル・ギャラリーが購入する)1860年以前のこと」であるとしている。マホガニーのパネルへの移植時に使用されたと見られる、人工的に合成されたウルトラマリンの顔料が発見されていることから、移植されたのは1830年以降であると考えられる。これに対し、カルースト・グルベンキアン美術館が所蔵する2点の小作品は、もとのままのオークのパネルとなっている。ストックホルムのドローイングは1916年ごろのドイツの記録に記載されているのが見つかっており、もともとはスウェーデンにあった可能性がある。現在スウェーデンの国立美術館が所蔵しているのは、1918年にノルウェー人コレクターのクリスチアン・ランゴーの遺贈によるものである。
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