制作意図 ―《互いの御影》
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「神護寺三像」の記事における「制作意図 ―《互いの御影》」の解説
更に願文を検討して三像が描かれた状況や背景の考察に移る。願文の日付は23日で、これは尊氏・直義の母上杉清子の月命日に当たり、願文の1年前直義は同じ23日に高野山金剛三昧院に寄進していることから、二像の寄進は母の菩提を弔うためだと考えられる。黒田は当時の政治状況から推測を進めて、この頃室町幕府における尊氏・直義兄弟の二頭政治に綻びが見られ、母・清子はそれに心を痛めてながら亡くなった。そこで直義は母の願いを聞き届け、二頭政治を継続する政治的意志を込めて対の肖像を奉納したと想定する。 しかし、直義が対の肖像画を奉納するというアイデアを自分で思いつくのは困難で、それを教示・示唆した人物がいるはずである。そして、それは直義と交流深かった夢窓疎石しか考えられない。そこで、願文の前年に出版された、足利直義が質問し、夢窓疎石がそれに答えた問答集『夢中問答集』に着目する。その第91段に解脱上人貞慶が、達磨寺に達磨大師と聖徳太子の対の肖像を安置した話や、更に第7段には、弘法大師が描いた八幡大明神像と、八幡大明神が弘法大師を描いた対の肖像画《互の御影》が、ほかならぬ神護寺に安置された逸話が記されている。この《互の御影》は現存しないが、やはり神護寺にある鎌倉時代の写しはほぼ神護寺三像と同じ大きさであり、平安から鎌倉時代に作られた弘法大師像もこれらに近い大きさである。なお、こうした祖師像は賛文を伴わないのが普通で、三像に賛文がないのも、賛文が伴うことが多い武家肖像画の系譜ではなく、祖師像に連なるためだと考えられる。また、中世は聖徳太子信仰が盛んであり、弘法大師は太子の後身(生まれ変わり)とされ、疎石は直義に戦乱の世を鎮め、太子の政治を手本として仏法を興隆するよう強く期待していた(第17段)。直義もこの疎石の期待に応え、全国に安国寺利生塔を建立している。他方の八幡大明神は、武神で源氏の氏神であり、二頭政治において武力を担当し、源氏の棟梁である尊氏に自然と重なる。 これらの理由から、伝平重盛像は尊氏と八幡大明神のダブルイメージ、伝頼朝像は直義と弘法大師と聖徳太子のトリプルイメージが投影されており、両像は二頭政治を体現し、南北朝の動乱の時代に衆生を導くために顕現した八幡大菩薩・尊氏と、仏法をもって世を治める聖徳太子(弘法大師)・直義を表象した新たな《互の御影》として、神護寺に奉納されたと考えられる。言い換えれば、二頭政治を聖化した肖像画であり、だからこそ二頭政治が尊氏から義詮に交代した際に足利義詮像も作られた。三像に他の俗人肖像画に見られない荘厳さが感じられるのは、その大きさもさる事ながら、こうしたイメージ操作があるからである。なお、安置する目的自体に変更はないため、新たな願文は作られなかったと見なせる。そして、直義の死とともに記録から忘れ去られた三像は、近世になって周知の源頼朝の像となって出現するのである。
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