出口王仁三郎との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 21:52 UTC 版)
なおはわずかな全財産を長女の娘婿に譲ることで座敷牢から出ることが出来た。当初、なおは自分に懸かった神の正体がわからず、また『艮の金神(実際は地上で最も高位の神・国常立尊)』が当時恐れられていた祟り神だったこともあって不安を抱いていた。僧侶や易者を頼ったが力にならず、金光教に相談している。天理教では天狗と判定された。しかし病気治療や日清戦争の予言により「綾部の金神さん」として地元の評判を呼び、小規模の信者グループが形成された。一方、金光教もなおに注目し、彼女を利用して綾部に進出しようと考えていた。1894年(明治27年)10月、金光教の傘下として最初の会合が開かれ、公認の広前(布教所)が出来たことで警察の干渉から逃れることができた。だが人類の改心と三千世界の立替え立直しを唱えるなお/艮の金神(国常立尊)と、日常生活における信仰を説く金光教は根本的に合致せず、両者の関係は次第に悪化する。なおの霊能力に惹かれて支援者となった金光教信者もおり、彼らが独立を目指すなおを支援して初期の幹部となった。1897年(明治30年)4月4日(旧3月3日)、綾部市裏町に住む信者の倉に移り、初めて単独で「艮の金神」を祭った。 1898年(明治31年)8月、事前に幾度か啓示されていた上田喜三郎(王仁三郎)と初体面する。後に王仁三郎は大本事件における精神鑑定で『それは偉い人と思ひました、非常に人を圧する様な偉い人で、そして何とも言えない神様が憑いて居ると思ひました』となおの印象を語っている。ところが、喜三郎の所属が稲荷講社であることになおが不信感を持ってしまい、初対面は物別れに終わった。それでもなおは考えを改め、再び喜三郎を綾部に招いた。喜三郎も綾部行きを希望していた。1899年(明治32年)7月3日、喜三郎は鎮魂帰神法で「艮の金神」は「国武彦命(後に国常立尊と判明)」と見分けた。 喜三郎は新教団「金明霊学会」の会長、なおは教主となり、後の大本の原型が誕生した。稲荷講社の傘下に入ることで、合法的に集会を行うことも可能になった。彼の手腕と能力を高く評価し、また、神の啓示を受けて、なおは、後継者と決めていた五女・出口すみと結婚させることにする。1900年(明治33年)1月、喜三郎はすみと養子結婚。1904年(明治37年)出口王仁三郎と改名した。なおは「これで大本の基礎固まれり」と喜んでいる。こうして王仁三郎の神道の知識を得て新教団の教義が確立していく一方、なおの中には違和感も存在していた。そもそもなおと信者に見られる強烈な排外思想・民族主義・欧米の風習への警戒感は王仁三郎になく、性格も正反対であり、二人の対立は必然だった。
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