冨樫氏の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/30 02:37 UTC 版)
残翁は著書で、以下のように断じている。藤原忠頼が永延元年(987年)に加賀の国府(現在の小松市古府)へ司として着任してから、守護冨樫政親が高尾城に没する長享2年(1488年)までが502年間、冨樫氏最後の当主冨樫泰俊が野々市の守護館を追われて越前金津城へ逃れるまでが83年間、合わせて600年間近くに亘って冨樫の家名を保持できたのは、民心を得て仁政を布いたからに他ならない。なぜなら、同時期は藤原氏の院政に次いで、源氏を排除して北条氏が登場する鎌倉時代、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した建武の中興、その後醍醐天皇を追放した足利尊氏の謀反、後醍醐天皇が南朝を立てて対抗した南北朝時代、応仁の乱などに揺れた室町時代、織田信長が足利義昭を追放する安土時代へと目まぐるしく時代が変遷した。相次ぐ戦い、親子の相克、兄弟争いなど、瞬時も安らぐことのない動乱の時代にあって、600年もの長きに亘って家名を護持できたのは、冨樫氏の徳が深く加賀の民心に広まっていたからである。冨樫政親滅亡後も、暴威無道であった一揆勢が冨樫の治世を懐旧し、再び冨樫泰高を守護職に奉じて野々市の守護館へ迎えた。そのこと一つを見ても、冨樫氏の遺徳が民の中に深く浸透し、声望の高かったことが窺えるではないか、と。 また、泰俊の最期から400年を経た今日、史実の伝承も途絶え、冨樫氏と言えば仏敵の一向一揆、安宅の勧進帳、加賀の赤飯(稲荷信仰に関係する)、民から慕われた藤原忠頼の勅許重任の4点でしか語られることがないことを嘆いている。 研究範囲は石川県内に留まらず、晴貞と泰俊亡き後の、押野(後藤家)、出羽、尾張、安芸、紀伊、能登、美濃の各冨樫氏のその後についても追跡を試みている。残翁は、何度かの上京による調査によって、「看聞日記」、「満済准后日記」から新事実を発見したことを歓喜し、先達史家の誰もが触れることもなかった「常光国師語録」、「不二遺稿」、「三宝院文書」を手にしたときは、それらを捧げ頂いて暫し感涙に浸ったと書いており、研究への思い入れが尋常でなかったことを窺わせる。 人前に出て目立つことを好まなかった残翁であったが、晩年は、研究成果が「石川県史第一篇改訂版」に採用され、「加賀文化」や「北国新聞」に連載されたことを、素直に喜んでいる。
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