冨樫氏の滅亡とは? わかりやすく解説

冨樫氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:45 UTC 版)

押野後藤家」の記事における「冨樫氏の滅亡」の解説

冨樫氏実効的な加賀国統治は、守護冨樫政親が1488年長享2年)、高尾城加賀一向一揆攻め滅ぼされ終わった長享の一揆)。その後冨樫氏代々守護職擁立するが、一揆衰えことなく勃発し一揆討伐掲げ織田信長組んで一揆勢力には抗えず、冨樫氏が再び加賀国実効支配することはなかった。元亀元年1570年5月一揆追われ冨樫氏最後当主泰俊親子守護館脱出し冨樫氏親戚朝倉氏家臣として越前国北方加賀一向一揆防衛配置に就いていた溝江景逸、長逸の父子頼り溝江氏の館(金津城)に身を寄せた。しかし、天正2年1574年2月19日尾山御坊(後の金沢城)の杉浦壱岐率い2万余の一揆勢に攻められ溝江景逸やむなく自ら館に火を放ち、妻や家臣溝江氏菩提所昌山妙隆寺の弁栄坊を始めとする僧、泰俊(64歳夫妻長男稙春(27歳)および次男天易侍者25歳)ら総勢三十余人枕を並べ自害し果てた。泰俊は最期臨み、幼い三男家俊9歳)を腹心家臣達に託して密かに館を脱出させることに成功した伝承にある。妙隆寺は、溝江氏一族と泰俊夫親子4人の霊を祀る菩提所であり、一揆犠牲者経木位牌とともに供養の灯を絶やすことなく今に伝えている。泰俊の法名は玄隆院殿巨川厳済大居士、妻の法名は慈現院殿玉珠清賢大姉。泰俊の辞世の句残っている。 「先立ちぬくひの八千度悲しき流る水の廻り来ぬなり」

※この「冨樫氏の滅亡」の解説は、「押野後藤家」の解説の一部です。
「冨樫氏の滅亡」を含む「押野後藤家」の記事については、「押野後藤家」の概要を参照ください。

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