再び候補に浮上・プロポーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:38 UTC 版)
「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の記事における「再び候補に浮上・プロポーズ」の解説
1992年(平成4年)1月、皇太子は「小和田雅子さんではだめでしょうか」と安嶋のあと東宮大夫になっていた菅野弘夫に告げた。4月27日、藤森は東宮侍従長の山下和夫、菅野、参与の団藤らとともに会議を開き、再び雅子を候補として進める計画を始め、中川は元外務事務次官で国際協力事業団総裁だった柳谷謙介に協力を依頼した。柳谷は、その当時の事務次官となっていた、元部下に当たる小和田恆に働きかけた。終わった話と思っていた恆は、皇太子自身からの希望を伝える柳谷の言葉に驚いたものの、雅子にこれを伝え、彼女はその後の複数にわたる関係者の「一度でいいからお会いしてほしい」という熱心な働きかけに応えて一度は再会することにした。8月16日、柳谷に連れられた雅子は、千代田区三番町の宮内庁長官公邸で皇太子と再会した。 同時に宮内庁は、マスコミに対し2月13日から3か月毎更新の形で皇太子妃報道を自粛する報道協定(皇太子妃報道に関する申し合わせ)を申し入れていた。これまでお妃候補が強引な取材でマスコミ不信に陥り、交際を発展させるにも支障をきたしていることへの配慮だった。各社はこれを受け入れた。 10月3日、皇室が接待に使用する千葉県市川市の新浜鴨場で、皇太子と雅子を二人きりでデートさせる計画が実行された。天皇・皇后が山形国体に行幸啓するため取材陣の注目がそちらに向くようにこの日が選ばれたとみられる。さらに内部からの情報漏れを防ぐため、この計画は東宮大夫と侍従長ほか数名しか知らされず、鴨場では場長のみに伝えて他の職員は休ませた。護衛については全く同行させず、後日皇宮警察官の間で反発もあったとされるが、実際には事前に皇太子の意向で幹部一人にこの件を伝えて理解を得ている。内舎人と呼ばれる男性職員一人がワンボックスカーを運転して後部座席に隠れた皇太子を運び、その後を山下がマイカーで護衛した。仮御所ではその間彼が部屋にずっといたように見せかけるため、職員が部屋に届けた彼の食事を誰かが代わりに食べて空の食器を食堂に下げるという徹底ぶりで、誰も気付くことはなかった。 こうして皇太子と、柳谷夫妻に連れられて鴨場に来た雅子は会うことができ、二人は鴨場を散策しゆっくりと会話した。この場で皇太子は雅子に「私と結婚していただけますか」とプロポーズした。皇太子は「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも国を思う気持ちに変わりはないはず」と説得した。雅子は即答せず、断る可能性を伝えたものの、その後も電話で連絡しあう約束をした。
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