再び全日本へ ( 2014 - )
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「高橋裕紀」の記事における「再び全日本へ ( 2014 - )」の解説
2014年は10年ぶりに全日本ロードレース選手権に同じく同年より参戦を再開したモリワキレーシングよりJ-GP2クラスに参戦。全6戦中4勝し、シリーズチャンピオンを獲得した。 2015年は引き続き全日本ロードレース選手権にモリワキレーシングよりJ-GP2クラスに参戦した。全レースでポールポジションを獲得し、第5戦ツインリンクもてぎを除き全6戦中5勝し、シリーズチャンピオンを獲得した。第5戦は最終ビクトリーコーナーで生形秀之と接触し転倒したが、再スタートしトップでチェッカーを受けた。しかし、レースディレクションより失格また、次戦第8戦(第6戦はJSB1000クラスの未開催、第7戦は中止)で、予選トップ5タイム抹消のペナルティが科された。このペナルティにも関わらず第8戦でもポールポジションを獲得している。 また、アジアロードレース選手権にMuSASHi Boon Siew Honda RacingからSS600クラスに参戦。 全12レース中8勝し、年間チャンピオンを獲得した。 第15戦ツインリンクで行われたMotogpにもmoto2クラスにMORIWAKIからワイルドカードで参戦。14位でポイントを獲得した。 2016年は全日本ロードレース選手権にモリワキレーシングより参戦することに変更はないもののクラスをJSB1000に変更した。第5戦SUGOの金曜日、クラッシュ。左足かかとを骨折し欠場するなど苦戦が続いた。ランキング14位。 また、引き続きアジアロードレース選手権に参戦。第3戦の日本グランプリで優勝したものの、チーム体制の変更と骨折による欠場の影響もありランキング4位。 2017年は全日本ロードレース選手権にモリワキレーシングよりJSB1000に引き続き参戦。多くのチームがブリヂストンタイヤを使用する中、ピレリタイヤを使用。第8戦岡山国際サーキットで3位表彰台を獲得した。ランキング9位。 鈴鹿8時間耐久ロードレースに清成龍一,ダン・リンフットとともにモリワキレーシングより参戦。清成の転倒の影響もあり27位。この年の参戦条件は全日本ロードレース選手権の第1、2戦、および5月に行われる鈴鹿サンデーロードレースのいずれかの成績であった。ライダー、チームの実績から全日本ロードレース選手権での参戦権の獲得が確実視されていた。しかし、第1、2戦はともに耐久戦で、清成とチームを組んで参戦したものの、清成が両レースで転倒してしまい参戦権を得ることはできなかった。そのため、地方選である鈴鹿サンデーロードレースに参戦することとなり、清成に続き2位でチェッカーを受けることで参戦権を獲得した。 2018年は引き続き全日本ロードレース選手権にモリワキレーシングよりJSB1000に参戦。悪天候となった第3戦オートポリスで、3位表彰台。ウェットコンディションとなった第5戦岡山でのポールポジションを獲得した(決勝は中止となったため、予選の成績によりハーフポイントを獲得)。ランキング5位。 2019年は全日本ロードレース選手権にモリワキレーシングよりJSB1000に第2戦鈴鹿2&4レース、最終戦MFJグランプリの鈴鹿でのレースのみにスポット参戦。ランキング20位。 鈴鹿8時間耐久ロードレースには小山知良、トロイ・ハーフォスとともに参戦し、9位。 レオン・キャミアの代役としてWorldSBKに第6戦、第7戦にスポット参戦。第7戦のレース1では8位入賞するなどし年間ランキング23位。 2020年はモリワキレーシングの全日本ロードレース選手権の参戦中止に伴い、日本郵便HondaDream TPに移籍。参戦クラスもこの年から開始されたST1000クラスに変更した。COVID-19のため、全4戦で行われ、第1戦のスポーツランドSUGO、第3戦のオートポリスの2勝。第5戦では開催前に追った左手のけがのためジャンプスタートするミスもあったが、16位でチェッカーを受け、自力でランキング1位を獲得した。
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再び全日本へ
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1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。 後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。 2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。
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