再びの亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「再びの亡命」の解説
1918年から翌年にかけての冬、ザンゲズルは雪によってカラバフとエレヴァンから隔離された。難民たちは飢餓と伝染病に苛まれ、インフレーションに翻弄された。1918年12月にアンドラニクの部隊はザンゲズルからゴリスへ撤退を試みたが、その途上でイギリス軍の将校に説得されてザンゲズルへ戻った。12月23日、ザンゲズルのアルメニア人たちは会議を開き、春まで人々の統制を保つことは不可能であるとの結論に達した。そして、緊張状態を緩和する第一の方法は、オスマン軍にナヒチェヴァンを追われた1万5千人を超える難民に対する補償であるということに合意した。アンドラニクを含めた会議のメンバーはイギリスに対して援助を呼びかけ、バクーのアルメニア人(en)からも寄付が集まったが、それも難民たちを養うのに充分な額ではなかった。 1919年2月にはアンドラニクはザンゲズルを離れる用意が出来ていた。イギリス軍の将校はバクー=チフリス鉄道のイェヴラフ(ロシア語版)駅から出発することを勧めたが、アンドラニクはその提案を拒否し、3月22日にアンドラニクは千人程度のゲリラ部隊を連れてゴリスを発った。彼らはシシアン(フランス語版)を通ってダララキャズへとアララト平野の深い雪溜りを進み、3週間の行軍の末にアララトの鉄道駅へと辿り着いた。そこでアンドラニクと出会った第一共和国の軍務大臣補佐のドラスタマット・カナヤン(英語版)と内務大臣補佐のサルキス・マナシアン (Սարգիս Մանասյան) は、アンドラニクをエレヴァンへ招待すると申し出た。しかしアンドラニクはこれを拒否した。アンドラニクにとってダシュナク党政府は、アルメニア人を裏切り、その故郷の土地と人々を消し去った元凶に他ならなかった。 アンドラニクが去って以降のザンゲズルは以前に増してアゼルバイジャンの脅威に脆弱になり、早々にエレヴァンからの支援を要請した。 4月13日、アンドラニクはアルメニア人の信仰の中心地であるエチミアジンで、全アルメニアのカトリコス(アルメニア語版)であるゲヴォルク5世(fr)の同席するなか「解散式」を行った。かつて5千人がいた彼の強力な部隊は今や1350人に減っていた。アンドラニクは自身とダシュナク党との不和、そしてカフカースのイギリス軍による外交政策の結果として、その部隊を解散させ、装備品と武装をゲヴォルク5世へと引き渡した。 同月27日、エチミアジンを離れたアンドラニクは、15人の将校を伴って特別列車でチフリスまで向かった。その日、途中のすべての駅々にはこの英雄を一目見ようと人々が詰めかけた。チフリスでアンドラニクはグルジア民主共和国の外務大臣エヴゲニー・ゲゲチコリ(ロシア語版)とグルジア・アルメニア戦争(ロシア語版)や作家ホヴハンネス・トゥマニアン(アルメニア語版)の翻訳について対談し、そしてバトゥミを経由してブルガリアへ脱出した。この日を最後にアンドラニクがアルメニアの地を踏むことは生涯なかった。
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