再びの上海:中国新文学の翻訳
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「井上紅梅」の記事における「再びの上海:中国新文学の翻訳」の解説
紅梅が上海に戻った直接の理由は、新聞『日刊支那事情』の文芸欄を担当することになったためである(なお、『日刊支那事情』の発行母体は「古巣」である上海日日新聞と同一である)。紅梅の関心も、かつてのような娯楽から「純粋の支那風俗」に移行し、古典文学・白話小説などの文芸研究に打ち込んでいくことになる。 中国新文学運動に対しては、当初は「過渡期の中途半端なハイカラがかった作品」として冷ややかに見ていたが、紅梅自身の言によれば1926年5月に張資平(中国語版)の作品に接したことを契機として認識を改め、胡適や譚正璧の作品の論評などを日本に発信した。魯迅作品の翻訳にも着手し、1926年に「狂人日記」を翻訳、1927年12月には『上海時論』に「在酒楼上」を発表。1928年には同誌に「風波」「薬」「阿Q正伝」「社戯」の翻訳を掲載した。 また、1928年(昭和3年)には『紅い土と緑(あお)い雀』を刊行した。 紅梅の中国社会・文化・風俗に関する文章は、実見を踏まえて写実的で詳細な筆致であり、それが他の「シナ通」にはない特徴となっていた。当時の日本の知識人には、中国風俗を知るルポルタージュとして歓迎された。たとえば芥川龍之介は1921年(大正10年)に上海を訪問した際、現地を知るために最適な情報源として『支那風俗』を挙げ、南京を周遊した佐藤春夫は随筆に『紅い土と緑い雀』を取り上げた。1926年(大正15年)6月には総合雑誌『改造』に紅梅の随筆が初めて掲載されるなど、紅梅の名は日本でも知られるようになった。
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