内神道に影響を与えたもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 15:54 UTC 版)
13世紀は日本の本格文化の最後にして最大の形成期であったが、「この世紀はまさに、日本におけるヒンズー教の教えの改革期だった。この時代ほど光に満ちていた時代は他になく、この時代に確信を持って語られた教えを、今世紀に生きる日本人も熱心に聴いているのである」――という日本の仏教文化の、この改革期には、同時に「死」という問題と「桜」や「紅葉」の風情に代表される美しい国土に住まいし、平和な家庭生活を人生の定めとしてきた日本人にとって、武道にしても文化にしても芸術にしても、正に現生の住処(すみか)を清めるという問題の熟成期を形成した時期でもあった。 この文化的歴史的背景はまったく世界でも特異な武士道文化や武道文化を生みだし、同時に「立派な死に方」や「人間の内にある不滅の存在」や「人間の弱さ」を見つめる時代であった。愛する国や平和な家庭生活に別れを告げる「死」――この問題に繊細に触れて日本人の緻密な美学や芸術が育まれた。「茶道」や「能」が確実に武人の教養として深く愛されたが、とりわけ武人は無を求めて「静坐」を深く好んだ。 サムライは、肝、胆力を鍛えて生きるすべをいつも維持しようとした。「静坐」は物に驚かない「氣力」を生むことであり、これが「氣沈丹田」という法則であった。 織田信長の「天下布武」の時代を抜けて江戸から明治の時代まで「静坐」を愛する日本人の伝統文化や武士道は維持されたが、明治の時代の文明の流入期にはそれらが「静坐法(出羽重遠=第一艦隊司令長官海軍少将)」や幾つかの特異な健康法などに形をかえて工夫され残された。 このような日本人の坐法は、座禅や胡坐、正坐や公家の礼法の楽坐等のなかで練られたが、同時に武家の礼法も生みだし、そして確実に武道と一体となって武士道文化を育んだ。これらは世界的に眺めてみても非常にほこることのできる崇高な文化であった。誠実で平和な家庭生活を人生の定めとしてきた日本人の姿勢として、この文化は今日まで残ってきている。このような文化は子供たちの輝く眼を育てるのに非常に有効である。 開祖の長尾豊喜の母校は校長の松尾春雄が塚本虎二の弟子でクリスチャンであったため、多く内村鑑三の影響を受けている。そのため、世界的に読まれた『武士道』と『代表的日本人』は、この創始者に大きな影響を与えたとされる。アルベルト・シュヴァイツァー博士を深く敬愛し、その文化哲学である生命の畏敬を信奉すると自ら語っている。『武士道』に書かれた内容は内神道の武道原理の確立に大きな影響を与えたとみられる。またこの開祖は沢庵禅師の武道書『不動智神妙録』と『太阿記』を研究したと述懐している。これらのことから、禅文化や静坐をよく研究したのちに、日本国の武道の伝統に深く着目してこの武道門が確立しているとみられる。この視点から、この武門の特異点や特色をみつめることができる。
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