六道口の戦いとは? わかりやすく解説

六道口の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 12:06 UTC 版)

六道辻」の記事における「六道口の戦い」の解説

宇都宮城奥州からの攻撃備え、主に北から西にかけての防御厚くした城下町構造をしていたため、秋月登之助土方歳三指揮した旧幕府軍の前軍慶応4年4月19日1868年5月11日)に南東から攻め入り宇都宮城落城させた。新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火し退却し家老の県信輯率い主力隊と藩主戸田忠恕数名分かれて館林城下へ向かった宇都宮藩館林藩姻戚関係にあったためである。一方小山宿敗北喫した新政府軍東山道総督府からの救援隊派兵を受けながら北上し大鳥圭介率い旧幕府軍は鹿沼宿から宇都宮向かい両者安塚宿で相まみえた。4月22日新暦5月14日)、安塚戦い当初旧幕府優位に進んでいたが、壬生城から駆け付けた河田佐久馬率い予備隊の活躍新政府軍優位に転じ旧幕府軍は退却した。 翌4月23日新暦5月15日)、新政府軍宇都宮城奪還のため栃木街道北上していることを知った大鳥は、日光転進準備取りやめ、城下への入り口である栃木街道楡木街道交差する六道口の防備固めた具体的には元々あった木戸補強し、土の俵を積み重ねて銃座築き大砲設置し20 - 30人哨兵配置した対す新政府軍滝の原(現・滝谷町)に四斤山砲などの大砲据え、まず付近の滝権現潜んでいた旧幕府軍方の約10人を駆逐し続いて六道口に向かって野菜畑や麦畑の中を進軍した。そこで銃撃戦となり、砲術優れた大山弥助率い新政府軍四斤山砲砲撃行った新政府軍四斤山砲大山改良した弥助砲」で、旧幕府軍の大砲木戸土塁破壊した旧幕府軍は六道口の背後にある武家屋敷地の竹林逃げ込んだため、午前9時頃、新政府軍は四の筋から一の筋の武家屋敷地へ侵攻し松が峰門へ迫った防備の厚い西側から攻め入ったため、一進一退の攻防続き土方足首撃ち抜かれ新政府軍野津七次が負傷した正午頃六道口に入った大鳥の一隊新政府軍背後から攻め別の一隊は北の材木町から攻撃仕掛け東・西・北の三方包囲され新政府軍窮地追い込まれるも、伊地知正治河田率い部隊加勢し新政府軍総攻撃により形勢逆転し夕刻旧幕府軍は八幡山から北方逃れ日光へと向かった。この戦闘多数死者発生し付近流れ新川真っ赤に染まった伝えられる。 こうして宇都宮城新政府軍取り戻し、翌4月24日新暦5月16日)に宇都宮藩家老戸田三左衛門引き渡された。館林逃れていた戸田藩主らが宇都宮城戻ったのは4月27日新暦5月19日)のことで、宇都宮藩士は自ら奪還戦に臨むことなく城に戻る形となった

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