六道口の戦い
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宇都宮城は奥州からの攻撃に備え、主に北から西にかけての防御を厚くした城下町構造をしていたため、秋月登之助と土方歳三が指揮した旧幕府軍の前軍は慶応4年4月19日(1868年5月11日)に南東から攻め入り、宇都宮城を落城させた。新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火して退却し、家老の県信輯率いる主力隊と藩主・戸田忠恕ら数名に分かれて館林城下へ向かった。宇都宮藩と館林藩が姻戚関係にあったためである。一方、小山宿で敗北を喫した新政府軍は東山道総督府からの救援隊の派兵を受けながら北上し、大鳥圭介率いる旧幕府軍は鹿沼宿から宇都宮へ向かい、両者は安塚宿で相まみえた。4月22日(新暦5月14日)、安塚の戦いは当初旧幕府軍優位に進んでいたが、壬生城から駆け付けた河田佐久馬率いる予備隊の活躍で新政府軍優位に転じ、旧幕府軍は退却した。 翌4月23日(新暦5月15日)、新政府軍が宇都宮城奪還のため栃木街道を北上していることを知った大鳥は、日光転進の準備を取りやめ、城下への入り口である栃木街道と楡木街道の交差する六道口の防備を固めた。具体的には元々あった木戸を補強し、土の俵を積み重ねて銃座を築き、大砲を設置し、20 - 30人の哨兵を配置した。対する新政府軍は滝の原(現・滝谷町)に四斤山砲などの大砲を据え、まず付近の滝の権現に潜んでいた旧幕府軍方の約10人を駆逐し、続いて六道口に向かって野菜畑や麦畑の中を進軍した。そこで銃撃戦となり、砲術に優れた大山弥助の率いる新政府軍は四斤山砲で砲撃を行った。新政府軍の四斤山砲は大山が改良した「弥助砲」で、旧幕府軍の大砲・木戸・土塁を破壊した。 旧幕府軍は六道口の背後にある武家屋敷地の竹林に逃げ込んだため、午前9時頃、新政府軍は四の筋から一の筋の武家屋敷地へ侵攻し、松が峰門へ迫った。防備の厚い西側から攻め入ったため、一進一退の攻防が続き、土方は足首を撃ち抜かれ、新政府軍も野津七次が負傷した。正午頃、六道口に入った大鳥の一隊は新政府軍を背後から攻め、別の一隊は北の材木町から攻撃を仕掛け、東・西・北の三方を包囲された新政府軍は窮地に追い込まれるも、伊地知正治や河田の率いる部隊が加勢した新政府軍の総攻撃により形勢が逆転し、夕刻に旧幕府軍は八幡山から北方へ逃れ、日光へと向かった。この戦闘で多数の死者が発生し、付近を流れる新川の水が真っ赤に染まったと伝えられる。 こうして宇都宮城は新政府軍が取り戻し、翌4月24日(新暦5月16日)に宇都宮藩家老の戸田三左衛門に引き渡された。館林に逃れていた戸田藩主らが宇都宮城に戻ったのは4月27日(新暦5月19日)のことで、宇都宮藩士は自ら奪還戦に臨むことなく城に戻る形となった。
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