八九式から九五式への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 19:52 UTC 版)
「九五式軽戦車」の記事における「八九式から九五式への経緯」の解説
1920年代後半に開発・採用された、日本初の国産量産戦車である八九式軽戦車(後の八九式中戦車)は、本来日本陸軍が英国からの購入を求めたヴィッカース中戦車 Mk.I(11.7t)や、その代わりの参考用に輸入したビッカースC型中戦車(11.5t)のように、1920年代当時の世界水準に合わせて10t程度の戦車として開発された。改修を重ねたため、最終的に車重11.8tとなったが、スペック上では良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だった。この最高速度は、同時期の欧米戦車(ソ連のT-18、米国のT1中戦車、英国のヴィッカース中戦車 Mk.II)などと比較しても同等水準であり、むしろ陸軍が研究用に輸入していたフランスのルノー甲型・乙型(ルノーFT-17軽戦車・NC27軽戦車)と比べれば速い方であった。 この頃の陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、戦車としての性能という観点から見れば一定の水準に達していたため、採用時点では大きな不満はなかった。しかし、1930年代になると技術力の向上によりトラックを含む自動車の最高・巡航速度も上がり、実際に運用した際、八九式の25km/hですらトラックの40km/hに追いつけず、不十分となった。また欧米では、1930年代に各国に広く輸出されたヴィッカース 6トン戦車(1928年)や、ソ連の快速戦車BT-2(1931年)が登場するなど、従来より高速を発揮可能な新型戦車が配備されるようになった。さらに八九式は中国戦線における悪路、路外での投入では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、最前線で歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、路外で追撃戦を行うのには遅過ぎた。1933年(昭和8年)の熱河作戦にて最高速度 25km/h の八九式軽戦車は次々と脱落し、最高速度 40km/h の九二式重装甲車が活躍したこともあり、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」の開発を開始した。また、船舶輸送や揚陸、渡河などの日本軍の戦車運用能力という観点から見た場合、10t前後という重量は決して運用できない数値ではなかったが、日本軍の運用に適した重量は、6t前後であることが判明した。 1933年の作戦や実戦の戦訓から機動力を重視するようになった日本陸軍にとって、八九式は遅く、重く、運用しづらいなど、「軽戦車としては」失敗作となってしまった。ただし、八九式は1920年代の思想で作られた戦車であり、設計時期も1928年からと遅かったことも影響した。結果的に1930年代の戦車の高速化の時代に対応できず、一世代遅れの戦車となってしまった。 また、主力となる新型戦車は、ある程度の数を揃える必要性と財政上の理由からも、安価な軽戦車とすることが決まっていた。こうして上述の要求(軽くて速くて運用しやすい)を基に、八九式「軽戦車」の後継の、機甲戦力の主力となる戦車として、九五式軽戦車は開発された。1935年(昭和10年)の九五式軽戦車の採用に合わせ、重量の増えた八九式は新たに中戦車の区分(10tより上~20t以内)を設けた上で中戦車に再分類された。同時に重戦車の分類基準も引き上げられた。
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