全日本空輸の支援
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「全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件」の記事における「全日本空輸の支援」の解説
全日空横浜サッカークラブ(以下、全日空横浜または全日空)は1964年に神奈川県横浜市に設立された「中区スポーツ少年団」を前身としている。同少年団に所属していた選手達が成長し、中学生チームやトップチームを保有するクラブチームへと発展した経緯を持ち、横浜市教育委員会の後援もあり地域に根ざした市民サッカークラブとして活動していた。 1979年から全日本空輸(現・ANAホールディングス)による支援が始まり、チーム名を「ヨコハマ・トライスター・サッカークラブ」へ改称 したが、改称後も企業チーム化することはなかった。小学生からOBに至る数百人の会員の支払う会費などで運営され、トップチームは様々な職業や身分を持つ会社員や学生によって構成されるなど、ヨーロッパや南米のクラブ組織を理想とした。一方、自前のグラウンドを保持していない事情から練習場所を捜し求めて転々とする環境下に置かれていた。 トップチームは1981年に神奈川県リーグ1部で優勝し関東社会人リーグに昇格。1983年に関東社会人リーグと全国地域サッカーリーグ決勝大会を制し、JSL2部への昇格を果たす。1984年のJSL2部では住友金属と勝ち点で並び得失点差で2位となり、JSL1部昇格を果たした。チームが短期間で成績を伸ばした背景には、全日本空輸の潤沢な資金力を背景とした他チームからの選手補強があり、関東社会人リーグに在籍していた1983年から選手への金銭授受が始まった。1986年4月20日付けの『日刊スポーツ』の報道によると、同年にJSL1部のフジタ工業を退部し、全日空に加入したフォワードのカルバリオの年収は240万円だったとされ、1986年4月20日付けの『毎日新聞』の報道によると、トップチームの選手に対して毎月、交通費2万円と栄養費4万円の合計6万円が支給されていたとされる。 JSL1部昇格と共にスポンサー企業だった全日本空輸は「株式会社全日空スポーツ」を設立。クラブに所属する17人の選手は同社に嘱託社員という身分で雇用され、事実上の契約選手となった。この際、全日空の契約選手達が得ていた給与は、ベテラン選手で年収400万円、若手選手で120万円とされる。ボーナスはなく交通費などは自己負担、これらの給与から雇用保険が差し引かれ、健康保険や厚生年金はなかった。一方、前出のカルバリオは年収600万円 を得るなど、ヨコハマ・トライスター時代からの古参選手と移籍組との間の収入面での格差が生じていた。
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