優等列車設定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:11 UTC 版)
「東海道本線優等列車沿革」の記事における「優等列車設定」の解説
1896年(明治29年)9月 2年前となる1894年(明治27年)より神戸駅 - 広島駅間で運転を開始した山陽鉄道(現在の山陽本線を当時運営していた私鉄)の急行列車に刺激され、国有鉄道でも新橋駅 - 神戸駅間に1往復の急行列車を設定。新橋 - 神戸間の所要時間は下りが17時間22分、上りが17時間9分であった。 この急行列車は「急行料金」などといったものは徴収せず乗車券のみで乗車できたが、40哩(マイル=約64km)以上の区間でなければ乗車券を販売しないなどといった乗車制限は設けた。 1898年(明治31年)8月 新橋駅 - 神戸駅間に夜行の急行列車が設定され、急行は2往復となった。 1900年(明治33年)10月 新橋駅 - 神戸駅間の夜行急行列車に一等寝台車が連結開始された。 1901年(明治34年)12月 急行列車に食堂車が連結開始される。しかしながら、たとえば、国府津駅 - 沼津駅間は、いわゆる「箱根越え」として急勾配が存在する現在の御殿場線のルートを採用していたなど、難所を当時の東海道本線は抱えていた。このため、この路線で食堂車1両を連結することにもかなり無理があったらしく、食堂車は新橋駅 - 神戸駅間全線のうち、新橋駅 - 国府津駅間・沼津駅 - 馬場駅(後に大津駅となり、現在は膳所駅)間・京都駅 - 神戸駅間といった急勾配区間を省いた区間でしか連結されていなかった。急勾配区間前後の駅で解結を繰り返していたのである。 1903年(明治36年)1月 食堂車が全区間で連結されるようになる。 1904年(明治37年)2月 日露戦争による戦時体制を受けて、急行列車は全て普通列車となる。 1904年(明治37年)7月 3往復の急行列車が復活する。 1904年(明治37年)9月 再び急行列車が全廃。 1905年(明治38年)1月 新橋駅 - 下関駅間に、山陽鉄道に直通して運転される急行1・2列車が設定された。しかしながら約3か月で廃止となった。 1906年(明治39年)4月 新橋駅 - 神戸駅間に、一等車と二等車のみで編成された最急行1・2列車を設定。また、同時に同区間には一等車(一等寝台車を含む)と二等車のみで編成された夜行急行3・4列車、三等車のみで編成された夜行急行5・6列車も新設された。最急行列車に乗車するには乗車券の他に「急行列車券」が必要とされ、日本で初めて乗車券の他に「料金」を徴収する列車となった。 なお、列車種別の「最急行」は急行列車よりも上格の列車を意味するものであったが、このため現在の特急列車の前身とする考え方もある。 また、三等急行5・6列車はそれまでの食堂車が高級な「洋食堂車」であったのに対し、大衆向けの「和食堂車」を初めて連結した列車であった。 1906年(明治39年)12月 山陽鉄道は鉄道国有法によって国有化される。 1910年(明治43年)9月 急行3・4列車に二等寝台車を連結。
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