倉吉・若狭の千歯扱き製造と行商
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「千歯扱き」の記事における「倉吉・若狭の千歯扱き製造と行商」の解説
鳥取県の中央に位置する倉吉は、江戸時代から千歯扱きの製造が盛んな場所だった。明治22年(1889年)2月4日付「官報」の「倉吉稲扱製造景況」という記事によると、江戸時代の安永年間(1772-1780)に製造が始まり、天保9年(1839年)の改良により名声を得て、明治時代に倉吉の多くが千歯扱きに関わるようになった、とある。倉吉は鍛治町があり、江戸時代前期から多くの鍛冶屋があった。倉吉では、千歯のことを「千刃」と表記するが、倉吉千刃の製造はこの鍛治町が中心だった。また、千歯扱きの販売や行商人への資金貸出を行う「鉄耕舎」という会社が明治13年(1880年)に倉吉出身の三島久平とその近郊に住む岩本廉蔵の二人によって創設された。 製造工程は、穂を作る鍛冶仕事とできた穂を台木に取り付ける仕事に分けられる。鍛冶仕事は原料の地金から板状の荒金をとり、それを割って穂の素材とし、たたき伸ばし、また鍛えて穂を造り、ヤスリで削って刃をつけ、焼きを入れて完成する。出来た穂をからみ釘をつかって台木に取り付ける仕事は「からみ」と呼ばれ、千歯扱きの善し悪しを決める大事な作業で、熟練の職人があたっていた(注:「伯州倉吉改良稲扱株式会社」の製造工場や職人の様子を写したガラス乾板写真の内容に基く。) 倉吉の千歯扱きは行商を中心に販売されてきた。自ら行商先を選んで行く場合もあれば、先方の求めに応じて行くこともあった。倉吉の製造技術は鍛冶職人の行商により全国に伝わってきたが、中には行商先に移り住み現地で製造する事例も見られた。鉄耕舎の田中富蔵は、行商先の八王子に店を構えて製造・販売・修理を行った。富蔵の千歯扱きは八王子をはじめ、埼玉・東京・神奈川で広く使われており、好評を得ている。 また、若狭地方も千歯扱き製造・行商の盛んなところで、製造は主に早瀬(現・福井県三方郡美浜町)で造られたものだった。早瀬は江戸時代からの千歯扱きの産地で、その始まりは寺川庄兵衛によるものである。庄兵衛は「北国屋」という屋号で千歯扱きを製造し、販売や行商を行った。その後も北国屋は次の世代に受け継がれ、千歯扱きの製造を続けている。若狭も行商によって販売されていた。行商は全国規模で長期に渡っていたようである。明治44年(1911年)の「三方郡誌」では初期の行商先は三越(越前・越中・越後)と奥羽諸州であり、交通が発達した頃になると北は北海道、南は沖縄まで及んでいること、また男女とも17・8歳になると親子兄弟あるいは夫婦親戚同士で組を作り、陰暦5月の節句前後から正月前に至る行商をしていたこと、そして行商人の数が200人であることが記されている。明治42年(1909年)末の早瀬の人口は1327人で、子供の数を考えると成人の5人に1人が千歯扱き行商に携わっていた。若狭早瀬はまさに千歯扱き行商の集落だった。 千歯扱きの販売の多くは掛売だった。多くの場合は稲刈り前に販売し、収穫が終わった後に訪れて残金の精算をしている。行商の期間は長くなり、また二度手間にはなるが、収穫後であれば農家は現金収入を得ている。行商人にとっても農家にとっても、都合のよい方法といえる。また倉吉は鍛冶職人による行商であるのに対し、若狭早瀬は商売人による行商である。
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