保路運動と四川出兵
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義和団の乱後、多くの西洋列強が、中国における自らの勢力圏を統合する取り組みの一環として鉄道投資を行った。鉄道建設は山東、揚子江、昆明、満州にまたがって行われた。省政府も清朝廷の許可を得て、自らの鉄道を建設し始めた。広東省、湖南省、湖北省、四川省の監督の下、粤漢線や川漢線の事業が進められた。北京議定書以来続く賠償金支払いなどにより、継続的な財政問題に直面していた清朝廷は、1910年に「古典官僚実業家」であった盛宣懐による、全ての鉄道路線の国有化を通じて外国の融資を確保するという献策を採用した。 この政策は、四川・広東・湖南における地元の新興資本家たちを刺激して、激しい抵抗を受けた。四川の場合、川漢鉄道会社の資本金は、地元資本家たちに売却した株式の売却益や、地方特別税として地主から徴税した資金であり、これらの地主たちも鉄道会社の株券を与えられていたのである。この鉄道国有化に反対する運動は「保路運動」と呼ばれる。特に激しかった四川では、成都から資州、永川を経て重慶に至る一帯で、示威として一切の商業取引を中止し、学校を閉鎖した。8月11日までに、成都で大規模なストライキと集会があった。程なくして、この抵抗運動は四川保路運動として知られるようになった。蒲殿俊が四川保路同志会の会長に選出された。 1911年9月初め代理総督として着任していたばかりの四川総督趙爾豊は、示威運動に脅されて鉄道国有の期限延期を政府に要請したが、政府はかえってその軟弱を責めた。9月7日、「積極的介入」を求められた四川総督の趙爾豊は、保路同志会の主要指導者の逮捕を命じ、その後、兵に命じて抗議する者たちを射撃させた。 また朝廷は端方に兵を与え即刻四川に入るように命じた。端方は湖北新軍の2聯隊を率いて四川に到着する。9月15日に鉄道株主会長を筆頭とした代表たちは派兵中止を訴えに総督府に赴くが、総督は代表者5名を拘禁し、その釈放を求めて押し寄せた群衆に発砲させ、約40名が殺傷された。こうした抵抗運動を清朝は武力を以て抑圧したことで、朝廷に対する信頼は更に低下した。 「乱民暴動格殺勿論」という政府命令によって、すでに各県で起きていた愛国示威運動はますます激化し、重慶は民衆に占領されかかっていた。端方は資州で阻まれて赴任できず、応援に派遣された前四川総督は、形勢におびえ漢口に足踏みしていた。 その一方で、鉄道国有化に対して何もしようとしない湖南省と湖北省は、地元の報道から批判されていた。鉄道危機が激しくなるにつれて、大衆の清朝廷に対する信頼は、悪化し続けた。
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