保健学者として
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大学院生である1997年(平成9年)9月の時点で、既に医療科学研究所の研究員として着任していた。医療科学研究所には2000年(平成12年)5月まで勤務した。その後、アメリカ合衆国に渡り、同年7月にブラウン大学の博士研究員となった。ブラウン大学では地域保健学教室に在籍し、2002年(平成14年)6月まで勤務した。なお、その間の2001年(平成13年)7月から2002年(平成14年)3月にかけて、厚生労働省のリサーチレジデントとなり、北里大学にて研究を行った。また、2002年(平成14年)4月には信州大学に転じ、医療技術短期大学部の講師に就任した。ただし、医療技術短期大学部は医学部の保健学科に改組されたため、それに伴い同年10月より医学部の講師となり、2007年(平成19年)3月まで務めた。2007年(平成19年)4月、母校である東京大学に転じ、医科学研究所の准教授に就任した。医科学研究所においては、主として公共政策研究分野において研究を行った。准教授は2013年(平成25年)1月まで務め、翌月に教授に昇任した。なお、大学院においては、学際情報学府の学際情報学専攻にて文化・人間情報学コースの講義なども担当した。 そのほか、公的な役職なども多数務めている。厚生労働省においては、2010年(平成22年)よりレセプト情報等の提供に関する有識者会議の構成員を兼任している。内閣官房においては、2015年(平成27年)よりゲノム医療実現推進協議会の構成員や健康・医療戦略推進専門調査会の委員を兼任している。2020年(令和2年)、日本での新型コロナウイルス感染症の流行を受け、内閣に新型コロナウイルス感染症対策本部が設置されると、その下で発足した新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の構成員を兼任することになった。
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保健学者として
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1997年、静岡県立大学に採用され、短期大学部の助教授に就任した。2002年、静岡県立大学にて短期大学部の教授に昇任した。また、並行して浜松医科大学の大学院に進学し、医学系研究科にて学んだ。2008年3月、浜松医科大学の大学院における修士課程を修了した。それに伴い、修士(看護学)の学位を取得した。2016年10月、静岡県立大学の看護学部に異動し、そちらの教授となった。看護学部においては、主として看護学科の講義を担当し、公衆衛生看護学を受け持った。2020年3月31日、定年により静岡県立大学の教授を退任した。同年4月1日からは看護学部の特任教授として、引き続き看護学科の講義を担当した。
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保健学者として
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大学院修了後は、厚生労働省の独立行政法人である国立がん研究センターに採用され、2014年(平成26年)4月よりがん対策情報センターの研究員として着任した。国立がん研究センターは2015年(平成27年)に独立行政法人から国立研究開発法人に移行するが、以降も引き続きがん対策情報センターの研究員を務めた。その傍ら、他の教育・研究機関の役職も兼任していた。2017年(平成29年)4月から2021年(令和3年)3月にかけては、県と同名の公立大学法人により設置・運営される静岡県立大学にて客員共同研究員を務めるとともに、講師として非常勤で教鞭を執っていた。2021年(令和3年)3月に国立がん研究センターを退職し、同年4月より静岡県立大学の看護学部にて常勤の准教授を務めた。看護学部においては、主として看護学科の講義を担当し、専門基礎・保健学を受け持っていた。また、静岡県立大学の大学院においては、看護学研究科の准教授も兼務していた。看護学研究科においては、主として看護学専攻の講義を担当していた。
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