伊勢丹入社とは? わかりやすく解説

伊勢丹入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 10:16 UTC 版)

山中鏆」の記事における「伊勢丹入社」の解説

1947年大倉土木入社した月給500円家族を養うには不十分で、慶大アイスホッケー部先輩であり当時レナウン総務部長だった小菅丹治入社依頼した。しかし小菅直後伊勢丹に戻ることを決めており、誘い受けて1948年伊勢丹入社している。当初の数か月間は販売員務め続いて繊維製品課で仕入れ担当となった休業日墨田区メリヤス工場に通ううちに商品知識増え仕事面白くなったという。 係長だった1950年代前半営業部長山本宗二の秘書役となり、マーケティング商品政策学んだ1956年には日本初対象顧客別の売り場となる、中学生ターゲットにしたティーンエージャー・ショップを開設して大ヒットさせた。従来は服やベルトなど商品別に売り場設計され担当者区分もそれに従っていたため、社内では軋轢生じたという。また、ここで服飾の色やデザイン生地など全部デパート側で決めて下請けメーカーに製作を発注するという、画期的な自主マーチャンダイジングの手法を導入したアパレル業界張り巡らされ幅広い人脈持った山中は、セーター持っただけで原価当てるというぐらいの武勇伝を持つほどで、これはと思った即断即決近く公衆電話にも飛びついて指示を出すほどの徹底した現場主義を貫く。 課長だった1960年には日本バイヤーとして初めイタリアでデザイナー契約し婦人服サンプルパターン買い付けている。販売部長経て1966年には常務となり、労務担当した労働組合社内大事な組織考えるべきだという宮崎輝言葉感銘を受け、労使委員会設立して毎日話し合い組合とともに宴会合宿行っていたという。こうして築いた労使関係を基に、毎年団体交渉事前に決まった内容で即締結するという、当時としては異例なほど円満な状態を保っていた。1972年には専務就任した

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