伊勢丹入社
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1947年に大倉土木に入社したが月給が500円と家族を養うには不十分で、慶大アイスホッケー部の先輩であり当時レナウン総務部長だった小菅丹治に入社を依頼した。しかし小菅は直後に伊勢丹に戻ることを決めており、誘いを受けて1948年に伊勢丹に入社している。当初の数か月間は販売員を務め、続いて繊維製品課で仕入れ担当となった。休業日も墨田区のメリヤス工場に通ううちに商品の知識が増え、仕事も面白くなったという。 係長だった1950年代前半に営業部長の山本宗二の秘書役となり、マーケティングや商品政策を学んだ。1956年には日本初の対象顧客別の売り場となる、中学生をターゲットにしたティーンエージャー・ショップを開設して大ヒットさせた。従来は服やベルトなど商品別に売り場が設計されて担当者の区分もそれに従っていたため、社内では軋轢も生じたという。また、ここで服飾の色やデザイン、生地などを全部デパート側で決めて下請けメーカーに製作を発注するという、画期的な自主マーチャンダイジングの手法を導入した。アパレル業界に張り巡らされた幅広い人脈を持った山中は、セーターを持っただけで原価を当てるというぐらいの武勇伝を持つほどで、これはと思ったら即断即決で近くの公衆電話にも飛びついて指示を出すほどの徹底した現場主義を貫く。 課長だった1960年には日本のバイヤーとして初めてイタリアでデザイナーと契約し、婦人服のサンプルやパターンを買い付けている。販売部長を経て1966年には常務となり、労務を担当した。労働組合は社内の大事な組織と考えるべきだという宮崎輝の言葉に感銘を受け、労使委員会を設立して毎日話し合い、組合とともに宴会や合宿も行っていたという。こうして築いた労使関係を基に、毎年の団体交渉も事前に決まった内容で即締結するという、当時としては異例なほど円満な状態を保っていた。1972年には専務に就任した。
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