以仁王
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以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。
注釈
- ^ 『吾妻鏡』治承四年五月二十六日条「宮又於光明山鳥居前有御事。〈御年三十云々。〉」とあり、また『玉葉』同日条には「於宮者慥雖不見其首、同伐得了。」とある。これらにいう「宮」が以仁王のことである。
- ^ 八条院は永万元年(1165年)に崩御した二条天皇の准母(母親代わり)で、大宮御所には同天皇の后であった藤原多子が居住していた。このため、以仁王の還俗・元服には二条天皇親政派であった人々の支持があったと考えられる。一方で後白河法皇と二条天皇は実の父子でありながら政治的に対立関係にあり、二条天皇の支持派に擁されるということは結果的に後白河法皇ー高倉天皇の対抗馬としての意味合いを持つことになった[1]。
- ^ 院政時代に親王宣下を受けるのは、余程のことがないかぎり原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみと決まっていた。以仁王の母・成子は後白河の寵愛深い妃だったがその身分はあくまでも典侍(女官)である。しかも以仁王は幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗したという過去を持つ。そんな以仁王には親王宣下を行う根拠がそもそもなかったのであり、本人がそれを承服しかねる理由もなかったのである。
- ^ 『平家物語』および『越中旧事記』には「以仁親王」と記されているが事実ではない。
- ^ 城興寺領の没収の背景には高倉天皇およびその皇統に対抗する以仁王の経済基盤を崩す平家政権の意図があったが、その一方で城興寺は本来最雲法親王が「梨本門跡」の所領として有していたものとされ、以仁王への継承も彼が出家して最雲の法灯を継ぐことを前提にしていたと考えられている。ところが、以仁王が出家をしないで俗人のまま同領を支配することはその約束に反していた。そのため、平家政権も城興寺領の没収後は本来の所有者と言うべき「梨本門跡」(当時の門跡は明雲)に返還している[2]。
- ^ 河内祥輔は5月21日以前に以仁王と頼政が謀議をしたというのは『平家物語』の創作で、実際はこの日の園城寺攻撃に反対した頼政が抗命の罪で捕らえられそうになったために、やむなく王に協力したという説を出している[3]。
- ^ 東国平定以後、三善康信など京都出身の実務官人からの情報で朝廷の以仁王に対する認識を知った頼朝は、以仁王の令旨に代わる大義名分である寿永二年十月宣旨を朝廷から引き出した。一方、義仲は以仁王の令旨を正当な主張と受け止めて北陸宮擁立論を唱えたため、結果的に公家社会と敵対し、両者の命運を分ける一因となった[6]。
- ^ 九条兼実の外孫で後鳥羽天皇の皇女である昇子内親王は、誕生してすぐに八条院の猶子となった。その直後に重病となった八条院は、多年養育していた三条宮姫宮(以仁王の王女)の内親王宣下を兼実に要請する。これは王女が八条院領の正当な相続権者であることを内外に示すものだった。昇子内親王への八条院領の即時かつ全面的譲与を期待していた兼実は、以仁王が刑人であることを理由に内親王宣下を公式の議題にすることにも反対した。両者の折衝の結果、三条宮姫宮の一期支配の後に昇子内親王が伝領するという妥協案が成立し、王女の内親王宣下は却下された[7]。なお、この過程で兼実が対立相手である筈の三条宮姫宮の母親を懐妊させて姫宮の異父弟となる男子(後の八条良輔)を産ませるトラブルを起こしている[8]。
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では僧法円を北陸宮に比定している。
出典
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