付帯的状況について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「付帯的状況について」の解説
1836年に当時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンが第二合衆国銀行の免許更新を拒否して以来、米国には中央銀行不在の状態が続いていた。このためニューヨークにおける通貨供給量は、農業サイクル期の資金需要に合わせて不規則に上下動していた。毎年秋の収穫期になると収穫物を買い取る為に融資による資金が必要とされ、金利は上昇したが、アメリカ国外の投資家はこの金利上昇を待ってから資金をニューヨークに送ることで儲けを得ていた。マネーサプライにおける合衆国の地域格差は後に連邦準備制度が調整しても十分に解決されるものではなかった。 1906年1月以降、ダウ平均株価は103ドルの高値を記録したこともあり、この年の市場は当初年間通して穏やかに推移するものとみられたが、1906年4月のサンフランシスコ地震がもたらした被害で市場が不安定になり、電化をともなう復興事業のため資金がニューヨークからサンフランシスコに流れた。1906年1月がピークであったニューヨーク証券取引所株価は同年7月までに18%下落したが、9月末には下落分の半分程回復している。本格的な復興は、この一時的な落ち込みより遅れて始まる。そして生保の非農地モーゲージ貸付を固定化させ、金融資本家の電力株や電力債の価格を上昇させるのである。 1906年7月に成立したヘップバーン法(英語版)では州際通商委員会に鉄道運賃を決める権限が付与され、そして概説で述べたように金融資本家らが鉄道債を生保に売却し、鉄道会社の株価は下落した。1906年9月から1907年3月の間、株式市場は下落し、株式時価総額は7.7%減少した。3月9日から26日の間に株価はさらに9.8%下がった。(この3月の暴落はときに「金持ちの恐慌:rich man's panic」とも呼ばれる)。経済は夏中通して不安定な状態が続いた。システムに打撃を与えるようなショックが立て続けに起きた。当時融資担保としてもっとも広く用いられていたユニオン・パシフィック鉄道株が50ポイントも下落した。その年の6月にはニューヨーク市債が下落、7月には銅市場も暴落し、8月にはスタンダード・オイル社に対して反トラスト法違反として2900万ドル超もの巨額の罰金が科せられた。1907年が始まってから9ヶ月で株価は24.4%も下落していた。 7月27日付、米ビジネス紙「コマーシャル・アンド・ファイナンシャル・クロニクル」は当時の市況を次のように伝えている。「市場は依然不安定である ... 明るい兆候が見えたと思ったら、今度はパリへの金流出の情報が新たに伝わってきたりして、せっかく上向いた市況がガタガタになり、もうけも希望もどこかへ行ってしまう。」1907年は4月と5月にエジプトで、5月と6月には日本で、またドイツ・ハンブルクとチリでは10月始めと、米国外でも取り付け騒ぎが何件か発生していた。
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