人口急増期
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1970年代に入ると、八幡町では男山団地の開発が主因となって住宅開発がさかんに行われ、中学校を相次いで分離した。1972年の男山団地入居開始に伴い、町内2番目の中学校として男山第二中学校が分離・開校した。新たに造成された男山団地だけでなく、それまで男山中学校の通学区域であった有智郷小学校、都々城小学校(現在の八幡市立有都小学校)も男山第二中学校の校区に編入されることとなった。その理由は、「1、男山中学校の生徒数が増え、教室が不足するが、校地が狭くて増築できない。2、男山団地内の生徒数がまだ70名程度と少なくて小規模すぎ、分校扱いとなり校長が配置されない可能性がある。3、男山中学校から男山第二中学校へ校区を変更しても通学距離はほとんど変わらない。」ためであった。男山第二中学校の分離により、男山中学校の生徒数が605人(19学級)へと約200人減少し、過密解消に貢献した。 1975年には男山団地北部に町内3番目の中学校となる男山第三中学校が開校し、「男山中学校は生徒数増加で将来的に教室不足が見込まれ、橋本地区からは新設校の方が近い」との理由から橋本小学校の校区を男山第三中学校に変更した。校区変更により橋本地区からの電車通学が解消され、現在の男山中学校の校区が確立された。1970年代の男山団地の開発をはじめとする急激な人口増加の結果、八幡町は1977年10月に市制施行し、同時に八幡町立男山中学校から八幡市立男山中学校に改称した。 1970年代に男山第二中学校、男山第三中学校と分離を重ねたが、1980年頃には生徒数増加が問題となった。男山中学校の場合、1979年度に生徒数が682人(19学級)であったのが2年後の1981年度には840人(24学級)に増加し、更にそのまま推移すれば1985年度に1150人(32学級)への増加が見込まれた。 しかし、当時の男山中学校(現在の馬場市民公園)は旧市街地のほぼ中心部に位置し、男山第三中学校の約半分の面積である15,295㎡と狭く、北側は人家、東側は道路、南側は善法律寺の境内であり、拡張が不可能な状態であった。また、西側は山の斜面で日照時間が短いうえに湿気が多く、がけ崩れの危険があった。(1961年6月の梅雨前線豪雨と1972年昭和47年7月豪雨で土砂崩れが発生している。)そのため、これらの問題を解決するために現在地への新築・移転が決定し、1981年6月の市議会第2回定例会で移転新築校舎設計費2310万円が計上された。新築・移転事業は京都府教育委員会と文部省にも認められて国庫補助金交付の見通しが得られ、土地も取得できたため、1982年9月6日の臨時市議会で工事請負契約(13億8500万円)の締結が可決、着工の運びとなった。新校地は1983年9月から使用開始し、敷地面積は27,567㎡(普通教室33、障害児学級の教室2、特別教室14など)と旧校地の約1.8倍となり防災性も向上した。男山中学校の移転に伴い、旧校地は1984年から馬場市民公園として使用されている。校舎や体育館があった北側も建物が取り壊されてグラウンドとなっており、A面とB面が確保されている。長らく土のグラウンドであったが、2010年夏に北側の4500㎡が芝生化された
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人口急増期
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「宇治市立西宇治中学校」の記事における「人口急増期」の解説
1960年代後半を迎えると、校区内の宅地化により西宇治中学校の生徒数も急増した。鉄筋校舎を相次いで増築したが、それ以上の勢いで生徒数は増加したため、1972年には主に小倉地区を宇治市立北宇治中学校へと分離した。4年後の1976年には主に大久保駅周辺地区を宇治市立南宇治中学校を分離。1984年には宇治市立広野中学校を分離している。
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