亘理領主として
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慶長7年12月30日(1603年2月10日)、白石城に移った片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、亘理郡のうち23か村、611貫356文(5,095石)を拝領した。 復帰後の成実は、慶長11年(1606年)の政宗の娘・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614~15年)にかけての大坂の陣参陣、元和8年(1622年)の最上氏改易にともなう野辺沢城接収など数々の大役を担う。政宗没後、第2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなし、寛永15年(1638年)、前年に藩内で発生した洪水への対策費用として幕府から銀5,000貫を拝借した件の御礼言上のため、忠宗の名代として江戸に赴いた。この時饗応の席において奥羽での軍談を所望された成実は、仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光に感銘を与えたという。 こうした対外的役割を果たす一方で、成実は所領の開発・復興策を強力に推し進めた。農政面では灌漑設備の充実を図り、12世紀に開かれた旧来の岩地蔵用水の全面的改修に加え、伊具郡東小坂の取水口(小坂堰)から亘理郡八手庭に至る鳩原用水を新設した。また、沿岸部の耕作に適さない地域を活用するため、牡鹿郡長渡浜(現:石巻市)から技師を招き、鳥の海の周囲4か所(鳥屋崎浜・箱根田浜・長瀞浜・大畑浜)に塩田を開いた。のちに宇多郡10か村(現:新地町域)に計200貫を加増された際には新沼浦沿岸(今泉浜・今神浜)にも塩田を開いている。 寛永21年(1644年)に行われた寛永総検地の結果を受けての知行再編において一門の所領の上限は2,000貫(20,000石)までに設定されたが、亘理領は算出された貫高が拝領時のほぼ倍額に達しており、二割出目を掛けて旧基準値の6分の5のに減らして計算してもなお2,000貫を超過したため、表面上は加増ながらも逆に知行地の一部を収公され、亘理郡のうち23か村、宇多郡のうち10か村、伊具郡のうち1か村、胆沢郡のうち2か村で計2,000貫とされた。なお、成実の代に実施されたこれらの施策によって、成実没後も新田開発はますます進み、亘理伊達氏の最終的な表高は2,435貫302文(24,353石)にまで達した。 唯一の男子である小僧丸は早世していたため、正保3年(1646年)2月9日、従甥でもある養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。墓所の大雄寺 にある伊達成実霊屋は昭和49年(1974年)に実元霊屋・実氏霊屋と共に亘理町指定文化財となり、昭和54年(1979年)には伊達成実霊屋(附:木造彩色甲冑像)が宮城県指定有形文化財となった。 明治12年(1879年)には、遺徳を慕う亘理郡民の呼びかけにより、亘理要害本丸跡に建てられた亘理神社に武早智雄命として祀られている。
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