亘理鹿島三社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:09 UTC 版)
亘理郡には式内社が四座鎮座している。そのうち鹿島天足和気神社、鹿島緒名太神社(亘理町逢隈地区小山)、鹿島伊都乃比気神社の三座は、茨城県の常陸国一之宮である鹿島神宮と関係の深い神社である。現在は鹿島天足和気神社と鹿島緒名太神社は現存している。これらの鹿島神社三社のうち、鹿島天足和気神社と鹿島緒名太神社は、「三代実録」に記載されている「陸奥国に鎮座する鹿島大神苗裔を祀る三十八の神社」のうちの二社とされている。 鹿島伊都乃比気神社とされる小祠は、以前は吉田地区作田の民有地内にあり、社殿は三尺四面のものだった。郡民により篤く尊崇されており、祭神が軍神のため、特に戦時中は多くの参拝者が武運長久や出兵者の安全を祈願しに詣でたという。しかし、時代とともに社域などが荒廃衰微したため、明治43年2月8日に同地区の月山神社(祭神:月讀命)に合祀された。 延喜式内社・鹿島緒名太神社拝殿 月山神社拝殿 鹿島天足和気神社には、相殿神として左殿には鹿島伊都乃比気神社の祭神とされる稜威雄走神、右殿には鹿島緒名太神社の祭神とされる猿田彦命が祀られており、首座神の武甕槌神を祀る鹿島天足和気神社は亘理鹿島三社の総社として機能している。 社伝や宮司の話によれば、鹿島天足和気神社の相殿神として鹿島緒名太神社と鹿島伊都乃比気神社を合祀しているのは、日本武尊が三門山に鹿島天足和気神社を創建した当時は三座を一社にまとめていたためということである。その後、鹿島天足和気神社は平安時代に北鹿島地区に遷座し、江戸時代に現在の鎮座地へと再遷座した。他の二社もそれぞれ、鹿島緒名太神社は逢隈地区小山へ、鹿島伊都乃比気神社は吉田地区作田へと遷座したという。 鹿島天足和気神社の北東の北鹿島地区に鎮座する八雲神社の本殿南側には、三門山に祀られていた当時の鹿島神社の石祠が鎮座している。この石祠は、神宮寺地区の崇敬者が三門山から背負って八雲神社へと運んできたものだと伝わる。 三門山鎮座時の鹿島神社の石祠八雲神社境内に鎮座
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