久原財閥の傘下に
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事業拡大の最中にあたる1917年12月、山陽電気への改称とともに成立したばかりの平賀敏らの新経営陣は、葛原猪平を含め全員辞任した。同年8月から山陽電気の株式を久原房之助ら久原家が買収しており、久原財閥の傘下に入ったことに伴う異動であった。久原による買収は山陽電気の供給区域となった都濃郡下松町(現・下松市)での造船所建設計画(日立製作所笠戸事業所の起源)に関係するものとみられる。社長には久原房之助の推薦で山口町の八木宗十郎が就任したものの、その他の役員は取締役の小平浪平(日立製作所所長)など久原関係の人物で固められた。 久原の傘下に入った後も事業統合は続き、まず1918年10月16日に厚狭郡の長門電灯から事業を買収、次いで1921年(大正10年)3月9日には阿武川水力電気を合併した。両社の概要は以下の通り。 長門電灯株式会社 1916年8月資本金10万円で設立され、翌1917年1月15日に山陽電気からの受電(55キロワット)によって開業した。供給区域は厚狭郡船木町(現・宇部市)や須恵村(現・山陽小野田市)などで、1917年末時点で電灯6672灯と若干の電力を供給していた。なお須恵村には小野田セメント製造(現・太平洋セメント)が立地するが、同社に対する電力供給は長門電灯ではなく山陽電気が直接行った(1917年8月末時点で300キロワット)。 阿武川水力電気株式会社 1919年11月資本金200万円で設立。翌年6月阿武川の長門峡付近で水力発電所を着工しており、合併時はまだ建設中であった。社長は当時中国地方で複数の電気事業に関与していた野口遵で、合併後は山陽電気にも取締役として加わった。この合併と、1919年12月にあった増資により、山陽電気の資本金は700万円となっている。 相次ぐ事業統合により山陽電気の供給区域は拡大を続け、最終的には山口県中部、吉敷郡・阿武郡・大津郡・美祢郡・厚狭郡・都濃郡・熊毛郡の7郡78町村へと広がった。供給実績についても着実に伸長し、1923年には約11万5000灯の電灯と約4,300キロワットの電力を供給するまでになった。同年9月末時点の大口需要家には徳山海軍燃料廠(供給電力250キロワット)・大阪鉄板製造(500キロワット)・日立製作所笠戸工場(400キロワット)・小野田セメント製造(350キロワット)などが名を連ねる。一方、電源には1923年(大正12年)4月に出力2,840キロワットの阿武川発電所が加わり、総発電力は発電所4か所で5,680キロワットとなった。それ以外にも1920年(大正9年)10月より岩国電気(後の中外電気)からの1,200キロワットの受電を始めた。
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