中野の犬小屋
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「犬小屋 (江戸幕府)」の記事における「中野の犬小屋」の解説
元禄8年10月に中野の犬小屋建設を開始。普請担当の奉行は御側の米倉氏と藤堂氏、助役に津山藩主・森長成と丸亀藩主・京極高或が任命された。森長成は11万坪、京極高或は5万坪を担当し、江戸より西に1里(約4キロメートル)離れた中野の田園に、土居を築き、柵を建て、小屋を造った。 犬小屋用地は、中野村の百姓82人と宝仙寺から田畑・屋敷・芝地合わせて反別23町5反4畝10歩、坪数でいえば7万630坪の土地を御用地として収公して犬小屋の建設地とした(中野村「御用地ニ渡候田畑書貫帳」(堀江家文書C七六))。元禄15年5月の「中野村亥・子両年御用地相渡候反別之覚」(堀江家文書C77)では元禄8、9年の両年で百姓61名と宝仙寺から田畑反別48町9反、14万6717坪収公されたことが記されており、元禄9年には中野村からさらに田畑反別25町3反6畝7歩を御用地として幕府に引き渡したこととなる。「犬小屋御囲場絵図」(堀江家文書S一、元禄10年4月25日作成)によれば、元禄8年には17万9156坪、翌年には10万2330坪の土地で普請が行われ、道路分としてそれぞれ1万1095坪と5071坪も造成された。増築後の元禄12年(1699年)年当時、犬小屋・餌飼部屋等は290棟(7,250坪)あった。 犬小屋全体の御用地は29万7652坪におよび、中野村だけでなく周辺の高円寺村(現・東京都杉並区)などの土地も収公された。 『徳川実紀』元禄8年10月29日条では中野の犬小屋が落成したので大久保の犬小屋担当だった比留間正房にその管理を命じ、11月9日条では寄合番の沢奉実も担当を命じられた。そして、風呂屋方・賄方・小普請手代組頭・細工所同心・寄合番下役・小石川御殿番同心組頭・掃除組頭などの役人11人が配下に置かれた(「柳営日次記」)。同9年正月29日には納戸同心・腰物同心・賄方・細工方・寄合組などから7人が新たに下役人に任じられた(「柳営日次記」)。 同年11月13日条には、中野の犬小屋が完成し、江戸の町から集めた犬を10万匹収容、同月29日条には小納戸の落合道富や石原安種が中野犬小屋の奉行になり、役扶持300俵と同心15人が付けられたと記されている。同年12月15日には森氏や京極氏をはじめとする関係役人が褒美を与えられた(『徳川実紀』第六篇)。 「改正甘露叢」によれば、歩行目付(徒目付)8人と小人目付10人が「当分賄(とうぶんまかない)」として当面の間中野犬小屋の御用を担当し、5人の役人が「当分注進役」を命じられてその連絡役となった。そして中野犬小屋に収容された犬の餌代はその周辺地域から徴収する方針が示された。元禄8年12月22日に、喜多見村の犬小屋に配属されていた小普請の医師2人が中野の犬小屋担当となり、俸禄を賜った(「常憲院殿御実紀」)。この後も、鷹狩が廃止されたことによって廃職となった鳥見職の者が幾人も犬小屋担当へと異動となった(「改正甘露叢」)。ほか、病犬のために、柳沢吉保が抱え医師・丸岡某と幕府小普請組医師林宗久に役扶持を与え、犬小屋侍を命じた。 元禄8年12月7日に丹波国宮津藩藩主・奥平昌成が、来春に増築を完成させるよう、その手伝いを命じられ(「柳営日次記」)、志摩国鳥羽藩藩主・松平乗邑と石見国津和野藩藩主・亀井茲親も手伝いを命じられた。元禄10年(1697年)4月には犬小屋とその周辺道路を含めておよそ29万坪余に増築された。同時に四谷の犬小屋は廃止されて中野に一本化させることになり、同年6月22日の町触で四谷犬小屋の解体工事の入札希望者が募られた(『江戸町触集成』三三一七号)。
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