中原米長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:38 UTC 版)
中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。 2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(昭和50年)の1974年度・第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。 中原への8度目の挑戦となった1979年度・第20期王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。 1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。 この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局であるこの一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦や降級には関係ない一番だった。この対局で新手を放ち勝利する。米長哲学を実践した一例とされる。 米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974・1977・1979・1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980・1984・1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回の富士通杯達人戦でも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている。 横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)の1989年度・第39期王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。南は対局で横歩を取った。この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。しかし翌年1991年(平成3年)の1990年度・第40期王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。
※この「中原米長時代」の解説は、「米長邦雄」の解説の一部です。
「中原米長時代」を含む「米長邦雄」の記事については、「米長邦雄」の概要を参照ください。
- 中原米長時代のページへのリンク