中原淳一との出会い
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昭和20年(1945年)暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、その頃葦原邦子との仕事がきっかけから中原淳一に目をかけられるようになり、中原プロデュースのもと売り出して行く事になる。演技の基礎は中原と交遊の深かった杉村春子から学んだという。 高は日本で初めてシャンソン歌手を名乗った人物であり、「日本のシャンソン歌手第1号」と呼ばれている。「シャンソン歌手」という呼び方は中原淳一が「日本にはジャズ歌手というものがあるんだから、シャンソン歌手というものがあってもいいじゃないか」と作った造語であるが、高の活躍によって認知・定着した。 持ち歌はシャンソンにとどまらず、タンゴやポピュラー曲、オリジナルの流行歌と幅広く手掛け、日本の舶来音楽(洋楽)普及に尽力し続けた。シャンソンでは、文学的香りのするものからコミカルなものまで幅広く手掛けた。「シャンソン・ファンテジスト」と呼ばれたコミカルな楽曲も得意とした。これは日本ではあまり歌いこなせる人が多くないといわれていた楽曲類である。舞台化粧は中原淳一の発案で、男性版宝塚を想定した、濃淡の濃い化粧をしていたことでも知られた。化粧をした日本人初の男性歌手と言われていたが本人は否定した。浅草オペラ出身の田谷力三が先におこなっていたし、当人は「みんな多かれ少なかれやっていたよ」と語っていた。 中原とは終生まで親密な付き合いがあり、晩年は高が館山の別宅で面倒を見ていた。中原の妻である葦原邦子やその子らとも親しい。ただし、中原の長男中原洲一は高に対して複雑な思いがあったことを自身の著書で記している。
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