中原繁について
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「パール (THE YELLOW MONKEYの曲)」の記事における「中原繁について」の解説
日本コロムビア・トライアドレーベルのプロモーター中原繁は吉井和哉と同じ年である。中原は大学卒業後、コロムビアに入社し、アルバイト社員として勤務した後、2ndアルバム『EXPERIENCE MOVIE』(1993年リリース時、吉井和哉26歳)頃から正社員としてTHE YELLOW MONKEYの専属勤務となる。中原は「リンダリンダ」を熱唱するパンクロック好きでありTHE YELLOW MONKEYの芸術世界とは隔たりがあったが次第に意気投合した。吉井がパーソナリティを務める深夜のラジオ番組『MIDNIGHT ROCK CITY』放送の頃は仕事の後に朝まで語り合う日々で、吉井には夢の足音が聴こえたようである。中原はコロムビアがシングルリリースに難色を示していた「JAM/Tactics」を「絶対売ってやるよ!」と言って成功に導いた。 THE YELLOW MONKEYがコロムビアを離れることになった際には、THE YELLOW MONKEYが所属するマネージメント事務所で一緒にどうかとバンドから打診されたが、「親である」会社を裏切るわけにはいかずコロムビアに残り、ミッシェル・ガン・エレファントを成功させた。2000年3月18日、中原は担当の新人アーティストがゲスト出演するアマチュアバンドコンテストの最中に大動脈瘤破裂で死亡。過労、ストレス、暴飲暴食が中原を急死に追いやった。この日、THE YELLOW MONKEYは解散について話し合っていた。訃報を聞いたTHE YELLOW MONKEYは解散を考え直し、休止期間に入ることになった。「パール」で、中原に「どうしよう?」と語り掛けるような詞を吉井は書いた。2001年からの休止の後、THE YELLOW MONKEYは2004年の解散を免れ得なかった。
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