世界貿易センターの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 23:44 UTC 版)
「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」の記事における「世界貿易センターの建設」の解説
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国の経済は国際貿易の拡大に伴って成長した。そうした経済的背景から、世界貿易センターの構想が持ち上がった。当時、ニューヨークにおける経済成長はミッドタウン・マンハッタンに集中し、ロウアー・マンハッタンはデイビッド・ロックフェラー主導で進められたファイナンシャル・ディストリクトのワン・チェース・マンハッタン・プラザ建設など一部の例外を除き、全体的に遅れを取っていた。 1961年に公開された最初の建設計画では、世界貿易センターはイースト川の河畔に建てられる予定であった。しかし、当時のニュージャージー州知事ロバート・B・メイナーは、この計画はニューヨークがこの3億3500万ドルのプロジェクトを独り占めするものだとして不快感を示し、反対した。その最中、ニュージャージーのハドソン・アンド・マンハッタン鉄道(現パストレイン)は倒産の危機に瀕していた。トビンはニュージャージーが世界貿易センタープロジェクトに協力することを条件に、ハドソン・アンド・マンハッタン鉄道の運営を引き継ぐことに合意した。この買収の一部として、港湾公社はハドソン川をくぐるハドソン・アンド・マンハッタン鉄道の2本のトンネルを改修した。また、ロウアー・マンハッタンのハドソン河畔に立地していたハドソン・アンド・マンハッタン鉄道のハドソン・ターミナルも港湾公社の所有となった。港湾公社はハドソン・ターミナルの老朽化した建物を取り壊し、そこに世界貿易センターを建設することを決定した。 ニューヨーク・ニュージャージー両州、および港湾公社との間での合意が成立した後も、世界貿易センターの建設計画への批判が続いた。当時のニューヨーク市長ロバート・ワグナーは、港湾公社が交渉や討議において関わる範囲を限定していることに懸念を示した。また、当時周辺にはラジオ・ローと呼ばれる電気街が形成されていたが、世界貿易センターの建設計画によって地域のテナント、不動産所有者、小規模な事業主が立ち退きを迫られた。この計画に伴う強制的な移住に対し、約100人の住民が反対運動を起こした。 1964年、ランバート・セントルイス国際空港やプルーイット・アイゴーなどの設計で知られるモダニズム建築家、ミノル・ヤマサキが港湾公社の建築家として採用され、ツインタワーの構想を思いついた。港湾公社の要件である930,000m²のオフィス用スペースを確保するためには、ツインタワーはそれぞれ110階建てにする必要があるとはじき出された。当時世界一の高さを誇っていたエンパイア・ステート・ビルのオーナーは、ツインタワーがこの高さで完成すると「世界一」のタイトルを失うため、このプロジェクトに憤怒した。また、「補助を受けた」大量のオフィススペースが市場に出回り、民間との競争にさらされることに対する批判もあった。またプロジェクトの費用に対する疑問も投げかけられた。1966年時点で、プロジェクトの予算は5億7500万ドルに膨れ上がっていた。ニューヨーク市と港湾公社との最終交渉は税制面の問題に集中していた。最終的には、港湾公社が税の代わりに、世界貿易センターのテナント料収入の40%を市に支払うことで合意した。民間のテナントが入る以外のオフィススペースには州政府および連邦政府の機関が入ることになった。1962年にアメリカ合衆国関税局がテナントとして入る契約を結んだ。1964年には、ニューヨーク州政府との契約が締結された。 1968年8月にノースタワーの、翌1969年1月にはサウスタワーの建設が始まった。ツインタワーが完成したとき、港湾公社が負担する費用は9億ドルに跳ね上がっていた。世界貿易センターは1973年4月4日に開館した。しかし開館式の場には、その前年にエグゼクティブ・ディレクターを辞任したトビンの姿は無かった。 1972年、30年間にわたって港湾公社のエグゼクティブ・ディレクターを務めたトビンに代わって、ウィリアム・ローナンがエグゼクティブ・ディレクターに就任した。またその年、港湾公社は名称を現在の「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」に改め、組織の構造も改めた。
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