上海クーデターと汪の変心
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「武漢国民政府」の記事における「上海クーデターと汪の変心」の解説
「上海クーデター」も参照 党や軍での権力を確立したかにみえた蒋介石であったが、それまで党内業務に関係していなかった蒋が共産党員も内部にかかえた党を取り仕切るのは困難で、1927年3月、蒋は汪兆銘にフランスからの帰国を要請した。国民党左派と共産党は、3月で武漢でひらかれた国民党第二期第三回中央委員会で優位を確保したのに対し、蒋介石ら国民革命軍主流は、上海財界の支持を背景に林森ら国民党西山会議派とも提携して、これに対抗した。 蒋の招電に応じて4月1日に上海に到着し、再帰国した汪は、中央常務委員、組織部長に返り咲いた。汪はただちに中国共産党との話し合いに入った。4月5日、汪兆銘は共産党の中心人物である陳独秀とともに「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも蒋総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明(汪・陳共同声明)を発表した。この声明は、汪が国民党内でも蒋とのあいだに路線対立があることをなかば認め、共産党は汪との協力のもとで蒋排斥の立場にあることを示唆しつつ、蒋が容共政策を採ることを求める内容であった。しかし、結局、蒋介石と共産党との調停には成功しなかった。 4月12日、蒋介石は反共クーデター(上海クーデター)を断行し、共産党弾圧に乗り出した。蒋介石と李宗仁の軍が、共産党系の労働団体である上海総工会の武装行動隊を武装解除し、流血の惨事となったのである。これは、3月に南京入城を果たした国民革命軍が日本やイギリスの領事館、アメリカ合衆国系の大学などに侵入して略奪や暴行をはたらいた南京事件の背後に、反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の暗躍があると蒋が判断し、危惧したために引き起こされたともいわれている。 4月18日、蒋介石は江蘇省南京に反共を掲げる新しい国民政府を組織して、共産党の影響の強い武漢国民政府から離脱した。蒋は、国民党内から共産党員やその同調者、国民党左派などを摘発し、逮捕ないし殺害する「清党運動」を広げていった。 汪兆銘は武漢政府に残った。4月下旬、武漢の漢口埠頭には英米日仏伊などの軍艦計42隻が揃い、武漢政府に威圧を加えた。武漢駐在の外国企業は活動を停止し、企業家たちは武漢を離れ、政府は破産状態に陥りかけた。こうしたなか、6月1日、ヨシフ・スターリンからの新しい訓令が中国在留コミンテルンのインド人革命家マナベンドラ・ロイのもとにもたらされたことを契機として、汪も変心する。ロイはこの秘密電報を汪兆銘に示し、訓令の承認をせまったが、訓令はきわめて内政干渉の度合いが強く、中国の主権を大きく侵害し、私有財産を否定する内容であった。中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘に共産党への強い警戒心を植え付けさせ、反革命の立場に立たせることとなった。汪は7月に入って共産党と絶縁し、武漢にて清党工作を進めた。7月13日、共産党はコミンテルンからの指示を受けて武漢政府から退去し、7月15日、中国国民党は共産党を批判し、従来の容共政策の破棄を宣言して第一次国共合作はここに崩壊した。
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