上海クーデターと汪の変心とは? わかりやすく解説

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上海クーデターと汪の変心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/12 20:21 UTC 版)

武漢国民政府」の記事における「上海クーデターと汪の変心」の解説

上海クーデター」も参照 党や軍での権力確立したかにみえた蒋介石であったが、それまで党内業務関係していなかった蒋が共産党員内部かかえた党を取り仕切るのは困難で、1927年3月、蒋は汪兆銘フランスからの帰国要請した国民党左派共産党は、3月武漢ひらかれた国民党第二期第三回中央委員会優位確保したのに対し蒋介石国民革命軍主流は、上海財界支持背景林森国民党西山会議派とも提携して、これに対抗した。 蒋の招電に応じて4月1日上海到着し再帰国した汪は、中央常務委員組織部長に返り咲いた。汪はただちに中国共産党との話し合い入った4月5日汪兆銘共産党中心人物である陳独秀とともに中国国民党多数同志、およそ中国共産党理論およびその中国国民党対す真実態度了解する人々は、だれも蒋総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明(汪・陳共同声明)を発表したこの声明は、汪が国民党内でも蒋とのあいだに路線対立があることをなかば認め共産党は汪との協力のもとで蒋排斥立場にあることを示唆しつつ、蒋が容共政策を採ることを求め内容であった。しかし、結局蒋介石共産党との調停には成功しなかった。 4月12日蒋介石反共クーデター上海クーデター)を断行し共産党弾圧乗り出した蒋介石李宗仁の軍が、共産党系の労働団体である上海工会武装行動隊武装解除し流血惨事となったのである。これは、3月南京入城果たした国民革命軍日本イギリス領事館アメリカ合衆国系の大学など侵入して略奪暴行はたらいた南京事件背後に、反帝国主義掲げ中国共産党ソ連顧問暗躍があると蒋が判断し危惧したために引き起こされたともいわれている。 4月18日蒋介石江蘇省南京反共掲げ新し国民政府組織して共産党影響の強い武漢国民政府から離脱した。蒋は、国民党内から共産党員やその同調者国民党左派などを摘発し逮捕ないし殺害する「清党運動」を広げていった。 汪兆銘武漢政府残った4月下旬武漢漢口埠頭には英米日仏伊などの軍艦42隻が揃い武漢政府威圧加えた武漢駐在外国企業活動停止し企業家たちは武漢離れ政府破産状態に陥りかけた。こうしたなか、6月1日ヨシフ・スターリンからの新し訓令中国在留コミンテルンインド人革命家マナベンドラ・ロイのもとにもたらされたことを契機として、汪も変心する。ロイはこの秘密電報汪兆銘示し訓令承認せまったが、訓令きわめて内政干渉度合い強く中国主権大きく侵害し私有財産否定する内容であった中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘共産党への強い警戒心植え付けさせ、反革命立場立たせることとなった。汪は7月入って共産党絶縁し武漢にて清党工作進めた7月13日共産党コミンテルンからの指示受けて武漢政府から退去し7月15日中国国民党共産党批判し従来容共政策破棄宣言して第一次国共合作はここに崩壊した

※この「上海クーデターと汪の変心」の解説は、「武漢国民政府」の解説の一部です。
「上海クーデターと汪の変心」を含む「武漢国民政府」の記事については、「武漢国民政府」の概要を参照ください。

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