三葉戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:43 UTC 版)
第一次世界大戦中、幾つかの航空機製造会社が三葉機の形態を戦闘用に変えた。実際には、これらの三葉機は一般に複葉機よりも劣った性能を示し、二種の飛行機だけが、比較的少ない数量とはいえ、量産するに十分なほど成功した。 ニューポール社は1915年から1917年にかけ、一連の三葉機の試作型を製作し、搭乗員の視界の改善のため、上翼を後方へ大きくずらして配置した。また特徴的な三角形の支柱配置で三つの翼を支えた。この設計は貧弱な操舵という結果に終わり、打ち切られた。 1916年、ソッピース社は3種類の異なる設計で開発を行った。一つめ、ソッピース三葉機として知られる機体は量産が開始され、作戦任務に投入された最初の軍用三葉機となった。この機体は高アスペクト比かつスパンの同じ翼を持ち、これをソッピース・パップ複葉機とほぼ同じ胴体に搭載した。また翼の両側に一本の強靱な支柱を備え、最小限のワイヤーで張り占めて支えた。この機体はイギリス陸軍航空隊とイギリス海軍航空隊によって発注された。しかし結果としては、イギリス陸軍航空隊向けの機体は別種の機体と交換され、イギリス海軍航空隊のみでソッピースの三葉型が任務に就き、成功裏に働いた。 このようなソッピース三葉機の性能の優位と、アルバトロス D.IIIを超える初期の成功は、設計に対する軍の関心を、ことにドイツとオーストリア・ハンガリーで刺激した。一連の試作機が1917年から1918年にかけ、軍の圧力下でしばしば不承不承に製作された。例としては、アルバトロス社、アヴィアティーク社、ブランデンブルク社、DFW、オイラー社、フリードリヒスハーフェン社、LFGローラント社、ローナー社、ナグロ社、オファーク社、プファルツ社、ザプラーティンク社、シュッテ=ランツ社、ジーメンス・シュッカート社、W.K.F社、そしてアメリカではカーチス社である。これらはどれ一つ量産に至らなかった。フォッカーのV.4(いくつかの文献ではV.3とされる)試作機は、張り締めることなしに片持ちとされた珍しい翼を持ち、上翼は胴体へ支柱だけで取り付けられた。この翼は飛行中に過度の振動を起こし、次の試作機であるV.5では、ソッピースと同様、両方の翼の間に一つの支柱が追加された。しかしワイヤーは用いられなかった。この機体は有名なフォッカー Dr.I三葉機の試作機となった。1917年、この機はマンフレート・フォン・リヒトホーフェン、通称レッドバロンと最も密接にかかわり、航空機としてまず消えることのない名声を得た。この機体は良好な上昇率と高い運動性能を有したが、格別に速いということはなかった。この二例の機種が空中において衰退した後、こうした形態の機体は強化のために任務から外されたが、再就役したときには、もはやこれらの機体は性能面で最前線になかった。 戦闘機としての三葉機の性能は、改善された複葉機によってすぐに追い抜かれた。しかしながら、1919年と遅い時期にも、ソッピース・スナークの試作型3機が飛行していた。
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