三十年戦争の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:08 UTC 版)
「バート・ヴィンプフェン」の記事における「三十年戦争の時代」の解説
この町の宗教論争はすぐに脇に追いやられた。1622年、この街の近くで皇帝フェルディナント2世の将軍であるカトリック軍のティリー伯ヨハン・セルクラエスの部隊とプロテスタント同盟の盟主のバーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒの兵が会戦した。このヴィンプフェンの戦いは三十年戦争中最も重要な戦闘の一つで、最も多くの血が流された戦闘であった。 ティリー伯はこの前のヴィースロッホの戦いに敗れ、15,000人の屈強なカトリック兵士達は、クライヒガウ地方を横断して、ヴィンプフェン近くのネッカー川河畔まで退却してきた。バーデン辺境伯は20,000人のプロテスタント軍でこれを迎え撃った。1622年5月6日、敵対する両軍は、ヴィンプフェン、ビーベラッハ(現在はハイルボルン市に編入されている)、オーバーアイゼスハイム、ウンターアイゼスハイムの間で遭遇した。戦闘はティリー伯が勝利したが、戦略的に有利な丘陵地の上にいたことが主な勝因であったと思われる。わずか数時間の戦闘で5,000名の兵士が命を落とし、辺境伯軍の弾薬庫の爆発で数百人が亡くなった。 ヴィンプフェンは、この後戦争の推移に伴って数度の略奪にあった。家や畑が焼かれ、病気や疫病で人口が落ち込んだ。1648年の三十年戦争終結後の人口は、戦争前の1/10にまで減少した。多くの重要な建造物が破壊され、持ちこたえた建物も建て直されたりし、さらには後に建てられた新しい建物よってシュタウフェン時代の城域は破壊されてしまった。 三十年戦争がもたらした壊滅的な結末は、その後150年もの間この街を荒廃させ続けた。ネッカー盆地のケルト人たちは、紀元前にすでに塩水から塩を採っていたにもかかわらず、18世紀初めに行われた製塩所で塩を生産する最初の試みは失敗に終わった。さらに厳しい貧困が蔓延した。この時、ヴィンプフェンは、帝国直属都市ニュルンベルクからの経済支援を得た。この支援に感謝して、皇帝の城の一隅にある小さな塔は、「ニュルンベルクの小塔」と名付けられ、現在もこの名で呼ばれている。 1783年、ヴィンプフェンに木材革命の報がもたらされた。周辺の森に生えている木を市民は無料で自由に使って良くなったのである。市の財政を改善し、税収を拡大し、同時に零落していた市民をなくそうという目的であった。その結果、秩序回復のための強い指導力が後回しにされたことへの不満だけが残った。1802年にはヴィンプフェンは帝国自由都市の資格を剥奪され、1803年にヘッセン=ダルムシュタット方伯領の飛び地であると認定された。これはヴィンプフェンにとって都合良い結果をもたらした。大公国の国境から40kmも離れており、自治権を得たも同然だった。1919年にフォルクスシュターツ(市民国家)ヘッセンの成立に伴い、ヘッパンハイム郡に編入され、1938年にはベンスハイム郡と合併してベルクシュトラーセ郡となった。
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