一騎討ちの始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:36 UTC 版)
日本各地で邑同士の小競り合いが行われるようになった弥生時代から、ヤマト王権が確立・発展した奈良時代までの戦争は、歩兵主体の集団戦闘であり一騎討ちという概念は発達しなかった。ヤマト王権と争った蝦夷も軽装の騎馬部隊による騎射を主体としていた。 平安時代に入ると国内外の軍事的緊張は緩和したことから、朝廷が直接持つ軍事力は縮小されていき、代わって、各地に血縁的・地縁的なつながりを持つ源姓、平姓、藤姓などに代表される大小の武士団が台頭した。武士団は指揮官である武士(例えば惣領)に、騎乗の家の子(指揮官の子弟など近親者)や郎党、徒歩の郎党や従卒が付き従うという構成だった。徒歩の従卒などは専業の兵士とは限らず戦闘能力も低かったが、主要戦闘員である武士は日常的に馬術、弓術さらに騎射の訓練を行い、名誉を重んじた。この時代の一騎打ちは、騎射により矢を打ち合う「矢戦(やいくさ)」から始まり、矢が尽きると接近して太刀や薙刀などの打物で戦う馬上戦に移行、最後は相手の首を取るために馬を下りて戦う「歩戦(かちいくさ)」で勝敗を決した。 戦闘(合戦)時には、敵の指揮官である武士を討ち取ることで、敵の士気を喪失、命令系統を混乱させ、統制の取れた戦闘活動を不可能にすることができた。また、戦闘の決着がついた最終段階において敵の指揮官を討ち取ることで勝利を決定づけることができるため、合戦手法として一騎討ちが誕生したと言われている。 「一騎討ち」という言葉は、源平合戦から生まれたとされる。 身分の低い者同士が戦う場合、また一対一で戦う場合でも、両者の身分や実力に明白な差がある場合は、「一騎討ち」とは呼ばれない。「一騎討ち」の言葉が生じた源平合戦においては、位の高い武士同士の一対一での戦いのみを、「一騎討ち」と呼称していた。
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