一騎討ちまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 01:51 UTC 版)
「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事における「一騎討ちまでの経緯」の解説
永禄8年(1565年)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため、尼子氏の居城である月山富田城を攻撃する。堅固な城と尼子軍の奮戦により戦いが長引く中、武名を挙げたいと願っていた毛利軍の益田藤兼配下の品川将員は、武勇にすぐれた尼子軍の将、山中幸盛を一騎討ちにより討ち勝つことを決心する。 同年9月、将員は幸盛に勝つため、自らの名を「棫木狼之介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)」と改めると、月山富田城下で幸盛に一騎討ちを申し込む。幸盛もこれを承諾し、城下にある富田川の中州(川中島)で勝負することを決める。 この一騎討ちは、毛利軍・尼子軍の兵が富田川を挟んで対峙し、両陣営の見守るなかで行われた。
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