一国二制度と台湾(中華民国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 22:40 UTC 版)
「一国二制度」の記事における「一国二制度と台湾(中華民国)」の解説
第二次世界大戦後の中華民国では、台湾をどのように日本から接収して管理するか議論が起こり、省組織法に基づく中国大陸の他の省と一線を画し、立法・司法・行政などに亘る独自の権限を有する特別行政地域を設立するよう主張した陳儀の提案を蔣介石は受け入れた。1945年に台湾省行政長官公署を設立して陳儀が初代台湾省行政長官に任命された。しかし、警備総司令でもあった陳儀は二二八事件という大きな事件を引き起こし、この特別行政地域は2年に満たない1947年に廃止され、陳儀は国共内戦が起きていた大陸に左遷されたあげく中国共産党と結託したことが露見して粛清された。 当初中華人民共和国は、国共内戦の延長として台湾を武力で「解放」することを目指していた。しかし、1978年11月、改革開放を推し進める鄧小平は、台湾(中華民国)の現状を尊重すると述べ、同12月にはこれが中国共産党の第11期中央委員会第3次全体会議にて文書化された。1979年元旦、全国人民代表大会常務委員会は、「台湾同胞に告げる書(中国語版)」を発表し、三通によって平和統一を目指す姿勢を示した。 特別行政区に初めて言及したのが、1981年の葉剣英・全国人民代表大会常務委員会委員長の談話であり、高度な自治権と軍隊の保有を容認し、経済社会制度を変えないと述べた(後に返還された香港・マカオでは独自の軍隊の保有は認められず、人民解放軍駐香港部隊と人民解放軍駐マカオ部隊が駐留することとなった)。1982年には鄧小平が「一国家二制度」という名称を用いたとされる。 中国系アメリカ人の政治学者、楊力宇によると、鄧小平は楊のインタビューに応じた際、一国家二制度(特に台湾との関連において)は連邦制を念頭においていると発言したといわれる(楊力宇「鄧小平対和平統一的最新構想」『七十年代月刊』1983年8月号)。しかし、この発言は公式には否定されている。 蔡英文総統は、『文藝春秋』2021年9月号のインタビューで、「北京政府は台湾に対し、香港と同じ『一国二制度』による統一を呼び掛けました。この制度が実現不可能であることは現在の香港によって証明されており、北京政府の言葉を信用するのは難しいです。北京政府による『一国二制度』の提案は、絶対に受け入れられません。将来の選択肢にさえ入っていません」「台湾の一貫した立場は、『圧力に屈服せず、支持を得ながらも暴走しない』というものです」「民主主義、自由、人権は普遍的価値です。私共は北京当局に、香港やウイグルの人々への弾圧をやめるように呼び掛けていきます。日本も含めた民主主義陣営は、民主主義の価値を守るために今こそ団結すべきです」と述べている。
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