一国二制度による平和統一提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:12 UTC 版)
「中台関係」の記事における「一国二制度による平和統一提案」の解説
1979年1月、中国がアメリカとの国交を樹立すると、中国の最高指導者に復権した鄧小平は、国家目標として「四つの近代化」と並んで「台湾の復帰による祖国統一の完成」を掲げ、訪米先で「二度と『台湾解放』という言葉を使わない」と言及して「平和統一」を全面的に打ち出した。全人代常務委員会も「台湾同胞に告げる書」を発表し、両岸の交流(三通四流)を呼び掛けた。さらに1981年9月には葉剣英全人代常務委員会委員長の名において「第三次国共合作」「三通四流」「台湾の高度の自治権の享受」など九項目を提案した(葉九点)。 これに対し、蔣介石の後を継いだ蔣経国総統は、中共政権とは絶対に「接触しない」「交渉しない」「妥協しない」という「三不政策」により中国側の提案を拒否。1982年に「三民主義による中国統一」を対中政策として確立・堅持した。鄧小平はあきらめず、蔣経国との間で密使を通わせつつ、1983年6月、「国共両党の平等な対話」「台湾の司法権独立、軍隊保有の容認」「台湾当局の人事権の独立」など六項目を提案した(鄧六点)。一方では「二つの中国」につながる完全な自治権、三民主義による中国統一などに反対との立場も示し、「武力行使による統一」という選択肢も絶対に放棄しないとたびたび公言した。蔣経国も1987年から沈誠という密使を北京に派遣して交渉を行っていた。
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