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劉先Liu Xian

リュウセン
(リウセン)

(?~?)
魏尚書令

字は始宗。零陵郡の人《劉表伝》。「劉光」とも書かれるが《後漢書劉表伝》、おそらく誤り《同集解》。

甥の周不疑零陵重安の人であるという。劉先もまた重安の人だろうか

劉先は博学記憶力がよく、とりわけ黄老学を好み、また漢朝有職故実詳しかった劉表伝》。荊州劉表により別駕任じられた《劉表伝》。

袁紹官渡において曹操対峙していたとき、劉表援軍求められ承諾しつつも出発せず、また曹操支援するともなく天下成りゆき見計らっていた。劉先は従事中郎韓嵩とともに劉表諫め、「天下行く末将軍次第であります。もし興業目指すなら彼らの疲弊乗じるべきですし、さもなくば一方選んで従うべきです。曹操用兵巧み賢者多く帰服させておりますから、必ずや袁紹片付けることでしょうそのあと向かってきたならば将軍では防ぎきれませんぞ」と言った劉表迷ったすえ韓嵩使者として曹操のもとへ送った劉表伝》。

また、劉先も手紙携えて許へ行き曹操会見した賓客たちが居並ぶなか、曹操が劉先に訊ねる。「劉牧(劉表)どのはなぜ天地祭ったのか?」劉先は答えた。「劉牧は漢室肉親にして州牧地位おられますが、王道滞って賊徒どもが道を塞いでおるため、玉や絹を抱えながらお目見えするすべもなく、上表文したためながらお届けすることもできませんでしたそれゆえ天地祭って真心明らかにしたのであります」、と《劉表伝》。

曹操が「賊徒とは誰のことかな?」と言うと、劉先は「目に付く者はみなそれでございます」と答えた曹操は「いま孤(わたし)には歩騎十万人の羆熊(ひぐま)のごとき兵士がおる。叡慮奉じて罪人を討つならば服従せぬ者はあるまいと言ったが、劉先が「漢の政道衰えて庶民苦しんでおりますのに、天子奉じて天下鎮め国中恩徳帰服させるような忠義の士はなく、それどころ軍勢頼って残忍に振る舞い自分に並ぶ者はないと称するのは、ちょうど蚩尤智伯この世よみがえったようなものです」と答えたので、黙りこんでしまった《劉表伝》。曹操は劉先を武陵太守任じた劉表伝》。

荊州平定されたとき、劉先は漢の尚書となり、のちに魏国尚書令まで昇った《劉表伝》。甥に周不疑がいて、同郡の劉巴弟子入りさせようとしたが、これは劉巴断られている《劉巴伝》。

参照袁紹 / 韓嵩 / 蚩尤 / 周不疑 / 曹操 / 智伯 / 劉巴 / 劉表 / 漢 / 官渡 / 魏 / 許県 / 荊州 / 武陵郡 / 零陵郡 / 従事中郎 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 別駕従事 / 牧 / 郊天地 / 黄老学 / 典故有職故実


劉闡Liu Chan

リュウセン
(リウセン)

(?~?)
御史中丞

劉璋の子劉循の弟《劉璋伝》。一名劉緯」《劉璋伝》、または「劉禕」《先主集解》。

劉闡の人となり慎み深く財貨軽んじて義侠愛し仁慈謙譲風格持っていた《劉璋伝》。

建安十七年(二一二)、益州滞在していた劉備荊州引き揚げる聞き白水関守将の楊懐高沛とともに劉備見送った劉備酒宴設けて彼らを出迎えたが、その席上楊懐らを斬殺している《先主集解》。

父の益州劉璋劉備降り、振威将軍印綬返してもらって公安駐屯命じられた。孫権荊州襲撃し関羽殺したとき、劉璋改め益州牧に任じられ秭帰駐屯し、その地で没した。のちに南中豪族雍闓益州郡占拠して呉に味方したとき、孫権は劉闡を益州刺史任じて交州益州境界占領させたが、諸葛亮南方平定したので、劉闡は呉に帰国し御史中丞任じられた《劉璋伝》。

のちに病気にかかり、家で臨終迎えた劉璋伝》。

参照関羽 / 高沛 / 諸葛亮 / 孫権 / 楊懐 / 雍闓 / 劉循 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 荊州 / 呉 / 公安 / 交州 / 秭帰県 / 南中 / 白水県白水関) / 御史中丞 / 刺史 / 振威将軍 / 牧 / 印綬



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