周不疑とは? わかりやすく解説

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周不疑Zhou Buyi

シュウフギ
シウフギ

194?~208?)
処士

字は元直、あるいは文直。零陵郡重安の人。劉先の甥にあたる《劉表伝・同集解》。

周不疑は赤子のときから奇才発揮し聡明鋭敏であった劉表伝・同集解》。叔父劉先は同郡の劉巴師事させたかったが、劉巴は「むかし北に遊学いたしましたが名を記すことさえままなりません。甥御どのの鸞鳳おおとり)のごとき光輝ぶち壊しにして、燕雀の家に遊ばせようとおっしゃる。恥ずかしくて我慢なりません」と辞退している《劉巴伝》。

建安九年(二〇四)、曹操はその評判聞いて面会しようと求めた。不疑がやって来ると、その日のうちに自分の女を嫁がせようとしたが、不疑はこれを辞退した曹操はまた彼を議郎に取り立てようとしたが、不疑はやはり拝受しなかった。そのころ白い雀現れるという瑞祥があり、儒者たちはみな頌を作っていた。不疑は曹操会ってから紙と筆を借りその場作品作り上げてしまった。曹操たいそう驚き立派なものだと思った劉表集解》。

十二年、曹操烏丸討伐すべく柳城攻囲したが、陥落させられなかった。そこで戦場様子図面書いて計略訊ねると、不疑が進みで十通りの計略献上した。(曹操がこれを採用して柳城攻撃すると、あっという間に陥落した劉表集解》。

集解』では周不疑の年齢が若すぎることから、この従軍疑っている。

曹操息子曹沖可愛がり幼少のころから才智持ち主であったから、不疑とはちょうどよい仲間になるだろうと思っていたが、十三年、曹沖死んでしまったので不疑のことが疎ましくなり、殺そうとした。曹丕が「いけませぬ」と諫めたが、曹操は「あの人物は、お前に制御できる者ではないぞ」と言い刺客放って殺させた。時に十七歳劉表伝》。

周不疑が殺害されたのを『集解』は曹沖の死と同年だろうと推測している。それに従った

著書に『文論』四首があった《劉表伝》。

参照曹操 / 曹沖 / 曹丕 / 劉先 / 劉巴 / 北 / 重安県 / 柳城 / 零陵郡 / 議郎 / 文論 / 烏丸 / 頌 / 白雀


周不疑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 21:54 UTC 版)

周 不疑(しゅう ふぎ、192年 - 208年)は、後漢末期の政治家。元直[1]劉表曹操に仕えた劉先の妹の子。荊州零陵郡重安県の出身[2]


  1. ^ 太平御覧』巻三八五引零陵先賢伝によると字は文直
  2. ^ 『太平御覧』巻三八五引零陵先賢伝によると長安の出身


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