周不疑
字は元直、あるいは文直。零陵郡重安の人。劉先の甥にあたる《劉表伝・同集解》。 周不疑は赤子のときから奇才を発揮し、聡明鋭敏であった《劉表伝・同集解》。叔父の劉先は同郡の劉巴に師事させたかったが、劉巴は「むかし荊北に遊学いたしましたが名を記すことさえままなりません。甥御どのの鸞鳳(おおとり)のごとき光輝をぶち壊しにして、燕雀の家に遊ばせようとおっしゃる。恥ずかしくて我慢なりません」と辞退している《劉巴伝》。 建安九年(二〇四)、曹操はその評判を聞いて面会しようと求めた。不疑がやって来ると、その日のうちに自分の女を嫁がせようとしたが、不疑はこれを辞退した。曹操はまた彼を議郎に取り立てようとしたが、不疑はやはり拝受しなかった。そのころ白い雀が現れるという瑞祥があり、儒者たちはみな頌を作っていた。不疑は曹操に会ってから紙と筆を借り、その場で作品を作り上げてしまった。曹操はたいそう驚き、立派なものだと思った《劉表伝集解》。 十二年、曹操は烏丸を討伐すべく柳城を攻囲したが、陥落させられなかった。そこで戦場の様子を図面に書いて計略を訊ねると、不疑が進みでて十通りの計略を献上した。(曹操がこれを採用して)柳城を攻撃すると、あっという間に陥落した《劉表伝集解》。 『集解』では周不疑の年齢が若すぎることから、この従軍を疑っている。 曹操は息子曹沖を可愛がり、幼少のころから才智の持ち主であったから、不疑とはちょうどよい仲間になるだろうと思っていたが、十三年、曹沖が死んでしまったので不疑のことが疎ましくなり、殺そうとした。曹丕が「いけませぬ」と諫めたが、曹操は「あの人物は、お前に制御できる者ではないぞ」と言い、刺客を放って殺させた。時に十七歳《劉表伝》。 周不疑が殺害されたのを『集解』は曹沖の死と同年だろうと推測している。それに従った。 【参照】曹操 / 曹沖 / 曹丕 / 劉先 / 劉巴 / 荊北 / 重安県 / 柳城 / 零陵郡 / 議郎 / 文論 / 烏丸 / 頌 / 白雀 |
周不疑
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周 不疑(しゅう ふぎ、192年 - 208年)は、後漢末期の政治家。字は元直[1]。劉表・曹操に仕えた劉先の妹の子。荊州零陵郡重安県の出身[2]。
生涯
幼少の頃より天才として評判であり、聡明で思考は敏捷であった。
建安9年(204年)、曹操がその才能を聞きつけ謁見を許されると、曹操は一目でその才能を気に入りその日のうちに自分の娘を娶らせ、議郎として取り立てようとしたが、どちらも固辞した。
建安12年(207年)、白狼山の戦いに従軍した。曹操がこの戦いにおいて柳城を攻めあぐね、なにか策はないかと配下に尋ねると、周不疑が進み出て十の計略を披露し、曹操がそれに従うと即座に柳城を降すことができた。
曹操は周不疑を溺愛していた歳が近い息子の曹沖の才と比較してその側に置こうと考えていたが、建安13年(208年)、曹沖が亡くなると周不疑はかえってその才能を危険視され疎まれるようになり、これを殺そうとした。曹丕がこれを諌めたが、曹操はお前ではあいつを御すことはできまいと言って刺客を送って殺してしまった。享年17歳にして『文論』と題した著作が四編あったという(『三国志』劉表伝 裴松之注引摯虞『文章志』)。
逸話
母の兄の劉先は同郷で秀才と名高い劉巴の下に送って学ばせようとしたが、劉巴は鳳を燕雀の庭で遊ばせてその才能を潰してはいけないと、これを辞退した。
あるとき祥瑞である白い雀が現れた際に、儒者たちはみな詩を作っていた。曹操が試しに周不疑を召し出し、紙と筆を与えて詩を作らせた。曹操は彼が即興で作ったその出来栄えに大いに感嘆したという。
脚注
参考文献
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