ユナイテッド・ステーツの建造キャンセル
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「提督たちの反乱」の記事における「ユナイテッド・ステーツの建造キャンセル」の解説
初代国防長官にして、前海軍長官のジェームズ・フォレスタルは、海軍側の立場に立ってユナイテッド・ステーツの建造を承認、支援した。しかしながら、空軍側との対立などに悩まされ心労が重なった彼は、1949年3月28日に健康上の問題(精神を病んだと言われる)で辞任し、トルーマン大統領と近く同大統領の国防費削減・抑制策を支持していたルイス・A・ジョンソンが後任となる。 ジョンソン新国防長官は、前任者のフォレスタルとは一転、空軍側の立場に立ってこれを支援したが、彼は軍事問題に関して何も知らないとして制服組に嫌われた。就任から未だ1ヶ月と経たない4月23日、ジョンソンは議会に諮ることなくユナイテッド・ステーツの建造取消しを命じた。このジョンソンの独断に対し、サリバン海軍長官を筆頭に多くの海軍高官が抗議の意を表し辞任した。またその数日後、ジョンソンは今度は海兵隊が有する航空アセット(航空部門の設備・要員)の空軍への移管を発表したが、この計画は議会での騒動の中静かに中断された。海軍の航空母艦は空軍が管理・コントロールできない航空設備であったため空軍からは嫌われており、また空軍の計画担当者たちは「これからの核兵器の時代にあって航空母艦は時代遅れだ」と考えていた。空軍支持派だったジョンソン長官は、空母調達を制限することが彼やトルーマン大統領の考える国防費の削減・抑制策にも合致すると考えたこともあり、海軍の空母調達をできる限り制限しようと試みた。 ジョンソンの独断によるユナイテッド・ステーツ建造中止決定という「劣勢」の中、海軍側ではジョンソンや空軍側の計画を批判する動きが強まっていた。アーレイ・バーク大佐によって率いられた研究グループ“Op-23”は、B-36の性能及び運用に関する批判的資料を集め始め、その後間もなくして「匿名の怪文書」が出回った。その文書では、B-36を「10億ドルの大失敗」であると批判するとともに、契約者側が不正を行っている旨糾弾する内容が記されており、特にジョンソン国防長官については「コンソリデーテッド・バルティ社の重役として、その生産に個人的な興味を持っていた」と癒着や汚職をも疑わせる内容が記されていた。また、サタデー・イヴニング・ポスト誌にダニエル・V・ギャラリー海軍少将が発表した一連の記事によって、状況は更に悪化した。連載の最後には「彼らに海軍を沈めさせるな!」と非常に扇動的な文章が掲載され、これを受けてジョンソン長官は、ギャラリー少将を不服従の罪で軍法会議にかけるよう要求した。ギャラリーは軍法会議にかけられることは免れたものの、その影響で中将への昇進の道を断たれ、海軍士官としてのキャリアを終えることとなった。 1949年の末に、「提督たちの反乱」は1つの大きなクライマックスを迎えた。ジョンソンの独断に抗議して辞任したサリバン海軍長官の後任であるフランシス・マシューズ海軍長官は、この騒動の責任を問う形で複数の海軍将官たちを解任し、その中で今度は制服組のトップであるデンフェルド海軍作戦部長が解任される事態が起きた。
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