モハーチの戦い以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:12 UTC 版)
「スロバキアの歴史」の記事における「モハーチの戦い以降」の解説
1526年のモハーチの戦いののち、スレイマン1世率いるオスマン帝国はかつてのハンガリー王国の中央部を征服し、複数のオスマン帝国の属州をそこに設置した(ブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)参照)。トランシルヴァニアはオスマン帝国宗主下のトランシルヴァニア公国(東ハンガリー王国)になり、ここに1601年から1711年の期間のハンガリー貴族に率いられた反ハプスブルクの叛乱の拠点が誕生した。かつてのハンガリー帝国の残り、そこには現在のスロバキアの領土(ただし南中央部は除く)の大半、現在のハンガリー北部、北部クロアチアおよび現在のブルゲンラントはオスマン帝国の征服に抵抗し、すぐにハプスブルク帝国の属州となった。ハンガリー王国と知られるように(ハンガリー王冠領)して残された。しかし現代の歴史家は、これを「王領ハンガリー」と呼び、専らトランシルヴァニア公国を正当なハンガリーの継承国家と見なしている。 オーストリア大公のフェルディナーンド1世がハンガリー王に選ばれた。1541年のオスマン帝国のブダの征服以後は、ポジョニュ(ドイツ語名プレスブルク、スロヴァキア語名プレシュポロク、現在はスロヴァキア共和国のブラチスラヴァ)が1536年から1784年もしくは1848年の期間、ハプスブルク朝ハンガリー王国の首都、戴冠式開催都市となった。1526年から1830年までハプスブルクの19人の君主はハンガリー国王として戴冠式を聖マールトン大聖堂(聖マルティナ大聖堂)で執り行った。 オスマン帝国の侵略につれて、ハンガリー王によって統治されていたかつての領地が、ほぼ2世紀の間に、主要なトルコ戦争の舞台となった。この地域は、オスマン帝国の拡大に対する、ハプスブルク帝国の防衛(さらにヨーロッパの他の地域の防衛)のための役割を大いに担わされた。領地は住民の血と財でまかなわれたでなく、金や銀といった天然資源の実質すべての喪失によってもなかなわれた。それは風土病との代償の高くつく困難な戦いにも費やされるようになった。加えて、いくつかの地域での二重徴税が常態化し、地方の都市の減少した人々の生活水準をさらに悪化させた。 オスマン帝国の統治の間、現在のスロバキアの領土の一部はブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)として知られる属州に含まれた。現在のスロバキアにあるウイヴァル(ノヴェー・ザームキ)に、ウイヴァル・エヤレトの統治の中心があった。17世紀の二番目の半世紀に、オスマン帝国の勢力はハプスブルク朝ハンガリーの東部に広がり、テケリ・イムレが率いるオスマン帝国の宗主下のトランシルヴァニア公国が創設された。 1686年のブダ(のちのブダペスト)からのオスマン帝国の撤退以後、同市がハプスブルク朝ハンガリー王国の首都となった。ハンガリー王国、ハプスブルク帝国およびオスマン帝国もとでの数世紀のわたる生活にもかかわらず、スロバキアの人々は独自の言語と文化を維持しつつ継承した。
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